2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」

以下全文引用

2005年4月25日 福知山線5418M、一両目の「真実」
 私こと吉田恭一は、昨年4月25日に発生した福知山線快速脱線事故に巻き込まれました。
 そのときの模様を入院中に書き留めた手記を、鉄道に関するページを運営する者として、ここに掲載いたします。
 皆様が報道によりさんざん目にしたであろう、あの銀色の車体の中では、こんなこともあったということをご理解いただければ幸いです。
… 1 …
 「その日」は好天であった。本来なら、大阪郊外の千里に設けられた会社の拠点に、自家用車に乗って行くべき日だったのだが、ひとつだけ些細な用事ができたので、梅田にある本社に電車で向かうべく、8時40分過ぎに自宅を出た。そして、JR西宮名塩駅に入って来た、4両編成の各駅停車大阪行きの客となる。
 このとき、なんとなくだったのであるが───些細な用事は調べものであったこともあり、後々大阪駅にて改札口が近くなる、前のほうに乗っておこうかと、先頭車両に2つある扉のうちの左側、つまり列車の一番前のドアから乗車した。人ごみ嫌いである私は、普段、一番後ろか、そうでなくてもその一両前の車両に乗ることの多い人間であるのだが、この日に限って先頭の方に乗ってしまった。このことが、後の人生を左右しかねない大きな後悔のもととなる。
 宝塚駅では、今乗っている各停より後に宝塚を出るのに、尼崎には早く着く、9時3分発同志社前行き快速5418Mが、同じホームの向かい側に止まっているはずである。各停が宝塚駅に近づいてスピードを落とすと、この快速に乗り換えるべく、進行方向に向かって右側の扉の前に人が群がり始め、私もその列に加わる。そして、電車が止まってプラットホームに降り立つと、意外なことに、乗ってきた4両編成の各停と、待機している7両編成の快速の先頭車両の位置が同じであった。
 2つの列車の編成の長さが倍近くも違うのだから、常識的には、プラットホームでの電車の停止位置は、編成の中心合わせをして、各停の先頭位置が快速の2~3両目あたりに来そうなものである。だから、電車のアタマがきれいに揃っていることは意外であったが、そのまま自然な流れで、同志社前行き快速の先頭車両の前から2番目のドアから乗車する。
 くぐったドアの左側にある座席は、進行方向に向かって左右とも、座席の座面・背面の柄が専用のデザインになっている優先座席であり、誰にでも一目でわかるようになっている。そのため、歩く動線そのままに右奥の座席、つまり進行方向に向かって右側の座席に着座する。ただし、端の座席には先客があったため、その彼(若い男性だったように記憶している)の隣に座り、ノートパソコンと携帯電話を取り出した。
 前日終了した、私にとっては年に何回しかないような大きな仕事に関するメモを、携帯電話からノートパソコンに手作業で移すためであった。膝上に置いた鞄の上の左隅に携帯電話を置き、ノートパソコンを開いて、以後、データ移行作業に専念することとなる。
 そのためか、後にその名が世間に広く知れ渡ることとなった、23歳の運転士の運転が特に荒かったという印象はない。ただ、電車が駅に到着するたびに、作業のひと休みと、席を譲る必要のあるような人が乗ってきていないかの確認がてら、視線をノートパソコンの画面から上にあげたので、私が乗車していた一両目では、発車して最初の停車駅である中山寺駅で座席が全部埋まり、その次の川西池田駅から乗車した乗客は、皆が立ち客となったこと、そして私の近くの立ち客にご老人が見あたらなかったことは覚えている。
 そして、作業に没頭している間に、いつの間にか北伊丹を通過し、伊丹駅に到着した・・・はずなのに、扉が開く音がしない。パソコンの作業中で、液晶画面を注視していた私も、さすがに電車が停止したのに扉が開いた雰囲気がないことは気になり、オーバーランしたのかなと思って、顔を上げた。
 というのも、今の私にとって、オーバーランに遭遇することは、それほど珍しいことではない。私が結婚するまで、子供の頃から四半世紀にわたって、レジャーや通学・通勤のために乗り続けた阪急電鉄では、オーバーランに出くわした経験はたった一度しかなく、そのときには車内が「なんだなんだ」とざわついたのを鮮明に覚えている。しかし、頻繁に利用するようになって十年あまりのJRでは、すでに10回は経験している。
 JRでは他の乗客も慣れているのか、オーバーランがあっても声を上げたり驚いたりする者は皆無で、車内は取り立てて騒がしくなることもない。車掌が、電車を正規の停止位置までバックさせる旨の、アナウンスをすることはあるものの、基本的には電車は静かにバックして、何事もなかったかのように扉が開くのが通例である。
 しかし、電車は止まったまま、扉が開くなり、バックするなりの次の動作がない。「なんだこの間(ま)は・・・」と思いながら、パソコン画面から顔を上げていると、対面の広いガラス越しに見える風景から、電車が駅を行き過ぎているようにも思ったが、なんせ普段は先頭車両に乗らないために、「先頭車両のいつもの景色」がきっちり頭に入っているわけではない。しかも、進行方向向かって左側にある伊丹駅のプラットホームは、右側に座っている私の視点からは直接見えない。
 かといって、後ろを振り向いて下り線のプラットホームの位置を確認するほどのことでもなかった───後でわかったことだが、伊丹駅の上下線プラットホームは、位置がきっちり正対していないので、いずれにしても判らなかったはずである───ので、なんで止まったまま、扉も開かないし、バックもしないのだろうと思った。
 運転士は、電車の進行方向を反転させるスイッチの操作に手間取っているのだろうか? しかしこの時は、自分の右方、10メートルも離れていない乗務員室にいるはずの運転士を見ようとは思わなかった。なんか気まずく感じるほどの、空気までもが静止したような、いやな時間が流れる。そのため、電車がバックを始めるまで、10秒ほどかかったように感じた。もちろんそんなにはかかっていなかっただろうが、それほど長く感じるほどの、いつものオーバーランよりは長い「間」であった。ただ、バックを始めたスピード自体は、一部の乗客の証言にあるような手荒さは感じなかった。荒くもなく、しかし、かといって丁寧でもなく、普通の感じでバックしていく。
 それにしても、ガラス越しに見える架線柱の横切り方から見ても、軽く1両分以上はオーバーランしていたことはわかった。後に、運び込まれた病院のICUで、伊丹駅でのオーバーランが8mであったと報道されていると聞いたときには、少なからず驚くことになる。
 そして電車が止まって扉が開き、いったん通り過ぎた電車が戻ってくるのを待ちわびた乗客が乗ってきた。
 この車両の、青く長いシートは7人がけである。しかし、私が座っていた方や、対面側の7人がけのシートには、それぞれ6人ずつしか座っていなかった。朝夕の混雑時には、このシートにきっちり7人座ることが多いが、この快速電車のような、ラッシュの最盛時を過ぎた電車では、立客がいても座っている客がゆったり座ったままで、また立客も、座っている人の隙間をあけてもらって座るということもあまりないので、7人がけに6人というケースが多い。補足すると、首都圏の電車に最近多い、座席の座り位置をシートの形状や捕まり棒で限定するやり方ではないので、このようなゆったりとした座り方が可能なのである。
 私が乗っている先頭車には、この7人がけが6つ、そして2両目との連結部に4人がけが2つあるので、座っている客は計算上40人あまり、そして立っている客は50人くらいであろうか───一両目におおよそ100人ほどの乗客を呑み込んで、電車は伊丹駅を発車した。
 するとまもなく、「只今のオーバーランによって、列車が遅れまして皆様にはご迷惑をおかけします」といった主旨の車掌のアナウンスが流れた。オーバーランにはしょっちゅう遭遇したことがあるが、このようなアナウンスを聞くのは初めてである。驚いたのと同時に、車掌はまずいことを言ったなと思った。こんなことを言えば、運転士が乗客の注目を浴びて、プレッシャーを受けるのではないかと感じたのである。
 そのとき初めて、その運転士を見ようかなと思ったが、なんとなく面倒になって結局それはせず、引き続き膝上の作業に戻った。後述する事故直前にも、運転士を見ることがぎりぎりできなかったので、私は結局運転士の姿を見ていない。もっとも、立ち客によって遮られるなどして、それほど見えなかったに違いないが───
 伊丹発車後は、なんとなく、いつもよりスピードが出ていたような感じもするが、それも事故の衝撃による印象づけであったかもしれないから、なんともいえない。とにかく、半分以上終わった膝上での作業の仕上げを急いだ。
 そして、作業も佳境に入って画面に見入っていたそのときである。塚口駅を通過して、多くの分岐ポイントを通過した振動があった後、車内が少し暗くなった。というより、ノートパソコンの液晶画面の反射が少なくなり、画面が見やすくなったと言った方が、的確な表現かもしれない。いずれにしても、液晶画面を注視していても、名神高速道路の高架下に来たことには気づいた。その瞬間、キーボードをたたく指が一瞬止まった。
 「あれ? 電車の速度が落ちていない!」
 この名神高速の高架の先に右カーブがあることは、個人的な趣味で廃線跡探訪をしている私にとっては、ここが線路付け替えがなされた場所であることもあり、よく知っていた。いや私だけでなく、一般の方々も、それまで数分の間、全速力でブンブンにとばしていた電車が、結構大きなブレーキをかけてかなりの低速にまで減速し、続いてカーブの横Gがかかるということで、車内アナウンスがなくとも尼崎駅に近づいたことを体感するポイントとして、認識している人が多いのではないかと思う。
 通常は、塚口駅を通過して、駅に関連する分岐ポイントをいくつかやり過ごしているうちに、ほどなくブレーキがかかり始める。そして、名神高速の高架下が終わるあたりでブレーキが緩まり、続いて車輪をキーキーと軋ませながら問題の右カーブに進入するのであるが、高架下にまで来ているのに、ブレーキが全くかかってないではないか。と思っているうちに、すでに電車は高架下をくぐりぬけ、車内は明るくなってきている。ほんの一瞬考えた後に、えっ・・となった。その時、咄嗟に
 「カントに負ける!」
と思った。正確に言えば、”てにをは”間違いで、「カントが負ける」が正しい表現であるが、とにかく咄嗟に出た心の叫びはこれであった。カントとは、事故後、報道により世間一般にも少し有名になった用語であるが、列車がカーブを通過するときの遠心力による不安定動作、極端に言えば転倒防止のために、カーブの外側を内側より上げる高さのことを指す。まったくブレーキがかかっていなかったように感じたので、カントにより線路の外側を持ち上げている高さより、列車の速度による車体の遠心力が勝って、車両自体が横倒しになってしまうと感じたのである。
 「運転士何考えとんねん!」
と思い、右前方にある乗務員室の中にいるはずの運転士を見ようと思った瞬間、車両の進行方向に向かって右側、つまり自分の座っている側が、あたかも遊園地の遊具のように「ふわっと」浮いた。つまり、これは直前に直感したとおり、電車が左に横倒しになり始めたのである。しかし、遊園地の遊具のように、私たちはシートベルトをしているわけではない。そのため、右側の座席に座っていた私たちは、右斜め前の宙に体が投げ出されてゆく。
 つまり車体が横転してしまうぞ、という事象は直前に予感できたのであるが、実際にそれが起きて自分の体が投げ出される段になると、「うわっ」「あれあれ~」という感じでパニックになった。しかしなすすべはなかった。
 事故後、何両目かのレコーダーの記録により、このカーブの進入速度が108km/hであったと、それが確たるものであるかのように伝えられたが、私は 108km/hどころじゃないと思っている。私の感触では、まったくブレーキはかかっていない。つまり、体感的にはカーブ進入時で120km/h近くあったように感じた。
 もちろん、普段、電車に乗りながら速度計を見ているわけではないので、この数字になんの後ろ盾もないのであるが、直線部分の最高速度が120km/hであったならば、108km/hにまで落ちるほどの減速を感じなかったのである。いくら座席に座っていても、急ブレーキがかかったなら体が振られるはずだが、それがなかったのだ。
 ただし、体は確かに右斜め前に投げ出されたので、転倒を始めたときには何らかの制動はかかっていた可能性は否定しない。しかし、これも急カーブの抵抗によるものかもしれぬ。だから、事故後の運転席のブレーキレバーが非常ブレーキの位置まで押し込まれていたというのは、電車の事故に至る動作からして、私はいまだに信じることができないでいる。
 また、計算上、133km/h出ないと転倒しないという発表にも、ひどく落胆した。そんなことはない。一両目に乗っていた私が断言する。確かに 133km/hまでは出ていなかったものの、カーブ進入時に、鉄道工学に関して素人である私が、これは電車が転倒すると直感し、事実、横倒しになったのであるから───
 投げ出された体は、運転士を見ようと思った意に全く反する形で、左回りにまわって、背中が進行方向を向くのがわかった。横倒しになった車体が地面をこすりながら激しく震える中、その車内で後ろ向きになった私の眼前には、ハリウッド映画の爆発シーンのような画が広がる。事故後、誰かが言った「洗濯機の中にいるよう」という表現が、一番この時の車内の状況を言い当てているかもしれない。
 しかし、このような事故に遭遇したときによくなるといわれ、現に私も39年間の人生を送ってきた中で数回経験がある、物事がスローモーションになるような現象は起こらなかった。物や埃が舞い、激しい振動でぐしゃぐしゃになっていくなかで、意識が遠のいてゆく。「なんで普段使いの通勤電車でこんなことになるんや・・なんでや・・・」と思いながら───
… 2 …
 なんとなく目が覚めた。というより、目が開いたといった感じであろうか。あれから、どのくらいの時間が経ったのかはわからない。車内は、薄暗いせいなのか、それとも埃が漂っているのか、なんとなくもやっとしている。
 目の前は、世界から色が抜けてしまったような、彩度の低い瓦礫の光景が広がっている。やはり進行していた方向からみると、私は後ろのほうを向いているらしく、視線の先には少しばかりの空間があるのがわかる。そして、上下の感覚がどうも変だ。そう、目に見えている世界自体が横倒しになっているのだ。
 しかし、異様に静かであった。いや、もしかしたら音はしていたのに、その記憶がないだけかもしれない。
 そして、もやっているのは、目の前に広がる光景や音だけでなかった。自分の意識もである。あまりにぐちゃぐちゃな、これまで見たことのない光景に、なんだか現実でないように感じる。
 もしかしたら、昨日までの疲労のために居眠りをして、夢を見てしまっているのではないか。そうだ、これは夢なんだと思った。いや、正確には夢であってほしいと念じた。しかし、よくよく考え直してみると、先ほど電車が転倒した記憶は薄らながらある。認めたくないが、これは現実だ。
 視線を手前に移すと、私の上には男の人がのっている。何人のっていたかなどは覚えていないが、折り重なっているというような言葉で簡単に片付けられないほど、複雑に絡まりあっている。もちろん、そういう私も他の人の上にのっているようだ。
 ただ、顔の前だけは空間があいていて、それで目の前に視界が開けているのが判った。さらに足下の方に視線をおろすと、大変驚くべきことに、先ほどまで使っていたノートパソコンが、ちょうど私の胸の前に引っかかっており、そのおかげで空間ができ、息ができているようだ。何という偶然だろう! ノートパソコンは、事故の衝撃で閉じた状態にはなっていたが、すごいことであると思った。
 全身に人や物が載っていたせいなのか、自分の体を動かしたり、脱出を試みようとは全く思わなかった。手くらいは動かせる余裕があったのかもしれないが、そんな発想さえ全く浮かばなかった。このときは、痛みも記憶していない。
 ただただ、嘘であるかのような目の前の光景を、ぼんやりと眺めていた。そして、そのうちにまた意識が遠のいていった。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
 人の声で目が覚めた。私の記憶の中では、初めての事故後の音である。
 作業灯がつけられており、オレンジ色の作業着を着たレスキュー隊員が作業していた。すでに、私の上にのっていた人や物は、あのノートパソコンを含めて撤去されている。もしかしたら、命の恩人であったかもしれないノートパソコンの行方は気になったが、救出作業の障害物として、どこかに投げ捨てられたのであろう。他人にはただの壊れたパソコンでも、私にとっては貴重品だ。是非ともいつか再会したいという気持ちになる。
 しかし、私の体が動かない。見ると、両脚のすねの部分が瓦礫に挟まれている。このとき初めて痛みを感じた。特に左脚が強烈に挟まれてジンジンになっており、すでに半分感覚が麻痺している。右脚も痛い。
 私の真上で作業しているレスキュー隊員のヘルメットを見ると、左側になんと姫路市消防本部と書いてあった。「もう姫路から援軍が来ているのか!」 左手にはめた腕時計を見ると、まだ11時ごろであったように記憶している。
 周りを見ると、私の右下のほうに、といっても手を伸ばせば届くような近さに、同じくどこかを挟まれているのだろう、若い女性が「痛い、痛い」と泣きわめいている。ほかに男性が3人いる。
 えらいことになっていることを、このとき初めて実感した。これはもしかしたら、大きなニュースになっているのではないかと。何を今さら、と思われるかもしれないが、この狭い空間にいる私にとっては、事故の瞬間以来、私から見える範囲がすべてであり、事故全体の様子など、全くわからなかったからである。ただ、私の乗っている電車の先頭車両が脱線して、このようにぐちゃぐちゃになっており、多くの人が倒れ、遠くからレスキューが駆けつけている現実がある。
 家族や会社の人が心配しているだろうなと思う。いつもズボンの左ポケットに入れている携帯電話を取り出すべく、本能的に左ポケットをまさぐる。しかしポケットの中はカラである。よくよく考えると、事故当時、携帯も膝の上に出して作業をしていたことを思い出した。もうどこかにぶっ飛んでしまっているはずだ。
 なんとなく、右にいた男の人の手を握りしめ、「がんばろでぇ~」と声をかける。これは、その男の人のためと言うよりは、多分に自分で自分を励ますためであった。しかし、その男の人がすでに息絶えており、暖かく感じたその人の手は、私の体温によって暖められているだけであると判るまで、少なからずの時間を要した。その人の返事がないことで、すぐわかりそうなものではあるが、精神的に平常状態でなかったのであろう。
 まもなく、泣きわめいていた女の人が救出された。「いいなぁ・・私もはやくこのようになりたいな」と心から思いながら、その女の人に「よかったな! よかったな!!」と声をかけた。女性が手際よく載せられた担架は、消防隊員たちによって、バケツリレーの要領で搬出されていった。
 急に静けさのようなものが、あたりを支配する。おそらく、外は救急車の音やマスコミのヘリコプターの音、そして人の声などが飛び交って、ごった返しているのであろうが、1両目の私の周りはエアポケットに入ったような状態で、聞こえる音といえば、レスキュー隊員の声と、時折連続して鳴る携帯電話の呼び出し音くらいなものである。
 女の人がいなくなってから、レスキューの人の指示に従い、自分の体を女の人がいた辺りの右方に移して、体勢を変える。改めてよく見ると、私の後ろに一人、左横に一人、右下に一人の計3名の男の人が見える。ただ、いずれもすでに亡くなっているようであった。
 そして、上を見ると、電車の広い窓があった。幸いにも割れていない。割れていたなら、どうなっていたかわからない。がそれより驚いたことに、その窓ガラスのすぐ向こうには、コンクリートの壁のようなものが見えている。改めて上下左右の感覚を確認したが、やはり窓ガラスの方向が上だ。電車が横転した記憶に照らし合わせても、つじつまがあう。
 つまり、私が今いるのが横転している車両の左側面付近であり、見えているのは右側面の窓と、建物の天井裏というか、そういう類のものである。なんで窓の向こう、つまり上のほうにそんなものが見えるのであろうか。もちろんこれは、先頭車両がマンション「エフュージョン尼崎」一階部分の立体駐車場の中にもぐりこんだためであるが、納得するためには、数日後に新聞を見せてもらうまで待たねばならなかった。
 心を落ち着けて、上に見える窓の下にある座席のシートを見ると、優先座席の模様ではなく、通常のブルーである。周りも見渡して総合的に考えると、どうやら私は座っていたところから右斜め前に投げ出された後、どう移動したかはわからないものの、結局投げ出された着地点のあたりにまで、戻ってきているようであった。
 この私の一連の所作との前後関係ははっきり覚えていないが、目が覚めて30分ほどしたころであろうか、少し遠くから「交代!」との掛け声が響いて、レスキュー隊員がいったん出て行った。「えっ、交代なんかしないでくれよ」と一瞬思ったが、これだけの蒸し暑い劣悪環境の中の力仕事である。交代しないと効率がかえって落ちるのは、私にもわかる。そして、この交代で車内に入ってきたのは、今度は明石市消防本部のレスキュー隊員たちであった。挟まれながらも、すごい救急ネットワークが機能しているなと感じた。
 やがて、隊員から「右脚が抜けると思う、ちょっと頑張ってみて」と言われた。右脚には突き刺すような痛みがあったが、ゆっくり動かすと、まだ少しひっかかる。このことを訴えて、さらなる障害物を取り除いてもらってから、再度チャレンジすると抜けてきた。履いていた靴は、当然のごとく何かに引っかかって脱げた。しかし、普通に右脚を抜こうとすると、ひざのあたりが何かにあたるため、右脚をさらに右の方向へ、つまり股を開脚の方向へ、かなり大きく開ける必要があった。このときは、体が硬いことを素直に後悔した。
 痛いとか言っている場合ではない。多少の無理をして股を広げ、ようやく右脚が解放された。しかし、左脚はますますジンジンとしてきて、もう感覚がわからなくなってきている。レスキューの人が必死に作業してくれており、こんなことを言って状況が変わることもないのは百も承知であるのに、「すまんがもう限界や、早くしてくれんか・・」という言葉が出てしまう。それほど我慢できない状況であった。それが時計を見ると正午ごろであったから、事故発生から約3時間後である。
 レスキューの人は、カニの鋏を巨大化したような形をした、スプレッダーという機械に空気圧を送り、挟まれた脚のあたりの瓦礫の隙間を拡げようとしてくれている。「圧送れぇ~」という掛け声を、伝言ゲームの要領で繰り返し車外のスタッフに送るとともに、隙間にスプレッダーをあて、拡げようとしてくれているのだが、瓦礫の部材が曲がるばかりで、「やめぇ~」となる。何度やってもうまくいかず、レスキューの人も困っているようだ。
 あまりに状況が好転しないので、もしかしたらもう脚は抜けないのかもしれない・・・と弱気の虫が幅を利かせてくる。いや、もし抜けても、もう左脚は壊死してしまっていて、切断という結果が待っているのかな・・・とも思う。ああ、もう自由に歩くことは、二度とできなくなってしまうのか───普段の自由に動けていた日常を、今更ながらうらやましく思う。
 それでも、ごくわずかながら進展はあって、それとともに、作業をするレスキュー隊員の足場を確保するためにも、自由に動ける上半身を何回か動かして、スペースを作る。実はアバラが4本折れており、後に病院に搬送されてからは、体が全く動かなくなってしまうのであるが───
 それにしても、蒸し暑いせいもあって、強烈にのどが渇く。レスキューの人にお願いして、ペットボトルの水を飲ませてもらう。一瞬、内臓がやられていたら危ないなとも思ったが、この際、そんなことに構ってはいられない。上から豪快に口に流し込んでもらう。美味しいとか不味いとか、そういう評価の次元を超えている。ただただありがたかった。続いて水を頭にかけて冷やしてもらう。こういうことは何度も続いた。
 やはり皆が心配しているだろうなと気になって、これもレスキューの人にお願いして、携帯電話を借りようかとも考えた。しかし、今のところ、レスキューの方が何時間も作業をしてくれているのに、挟まれている左脚が抜ける気配はまったくない。もし電話して生声を聞かせたのに、結局助からなかったでは、電話を受けた相手が後で気持ち悪くなるだけだ───と妙な思考が働いて、救出されたらすぐ連絡をお願いすることにしようと思い直した。
 それでも、時折右後方から携帯の着信音が鳴り響き、これが自分のものであるような気がして、すまんがこれを取って出てくれないかとお願いしたりもした。しかし、レスキューの人によると、携帯は見えないという。そりゃそうだ。瓦礫の中に入ってしまっているのだろう。結果的には、事故後出てきた私の折りたたみ式の携帯電話は、折りたたみ部分がバリっと真っぷたつに割れていて、電源さえ入らなかった。鳴っていた電話は、やはり他人のものであったということになるが、電話をかけ続けていた携帯電話の持ち主の肉親、あるいは友人の心情を思うと、今でも心が痛む。
 改めて下の方を見ると、私の左脚は、亡くなっている男の人の右腕とともに、挟まれているのが判る。その人の右腕が抜けると、私の脚も少しは抜けやすくなるのかなとも思い、レスキューの人に、私の左脚を抜く前に、この下の人を助けてあげてくれと、訴えたこともあった。言葉遣いでその人が亡くなっていることを決め付けたくなくて、自然に助けてあげてくれという表現になっていた。
 その人の頭は、ちょうど私の左脚太ももあたりに来ていた。見た感じはまだ30代の、若いサラリーマンに見えた。その男性の頭部が、レスキューの人が格闘している隙間の入り口にちょうど来ている格好になっており、表現のしかたが不謹慎で誠に申し訳ないが、救出作業の妨げになっているのが私にもわかる。
 もし仮に、その人から右腕を切り離してしまえば、この先の作業はしやすくなるだろうが、この人にも家族や友人が待っている。いくら亡くなっているからといっても、できるだけ傷の少ない状態で、家族にお返ししたい気持ちは私とて変わらないし、私もそんなことをしてまで、早く救出されたいとは思わない。仮にこの人の右腕の犠牲の上に私が助かったとしたら、私にとって一生ひきずる心の傷にもなってしまう。
 しかし、いったい何時まで我慢せねばならないのだろう。14時くらいには、もう楽になっているだろうか。その時には解放されていることを夢見る。だから時間が早く過ぎてほしいと思う。何度も腕時計を見るが、あたりまえだがさっき見てから分針が少し進んだだけだ。時間の進むスピードが、いつもと同じであることがいくら判っていても、やはり進みが遅い。
 そういえば、左腕にはめた腕時計の、金属製のバックルを何度締めようとしても締まらない。見た目はおかしくないのに、どうも壊れているようだ。やはりここにも衝撃がかかったのか。腕時計がぶらんぶらんするのが、なんとなく気持ち悪い。
 かなり切羽詰まってきていた。あまりにもの痛みのために、わざとウトウトしたことが何度もあった。こういう時には、寝ると危ないのかもしれないが、寝ることによって、痛さを忘れることができ、時間も稼ぐことができる。必然が生み出した、痛みへの最大の自衛策であった。
 また、あまりにもの痛みのために、もう脚がずたずたになってもいいから、力づくで体を引っ張り出してほしいとお願いし、事実引っ張ってもらったこともあった。しかし、こんなに神経が麻痺してよくわからないくらいになっているのに、引っ張ってもらうと、やはり言葉に言い表せないほど痛い。それでも我慢せねばと、しばらく我慢したが、やはりダメであった。この引っ張ってもらうことをしなかったら、欠けたり裂けたりしたのを含めると、13箇所ほど損傷した骨のうちの1本くらいは、折らずに済んだかもしれない。
 ところで、レスキューの隊員たちの中にも、当然上下関係があって、皆からシンヤと呼ばれている隊員が、どうも新人のようであった。だから、「おいシンヤ!」とか「シンヤ! ○○持ってこい!」とかいろんな人から言われ、なにかとイジられる、いいキャラの好青年であった。
 やがて、上半身の体勢がしんどくなってきて、これもレスキューの人にお願いし、上半身を支えてもらう。当然のように、シンヤ君が担当となった。そのおかげで、私も直接彼に、「シンヤ君、しんどくなってきたからもうちょっと上に持ち上げてくれるか?」とか、「シンヤ君、悪いけど水ちょうだい」とか、あまり遠慮なくお願いすることができた。
 しかしシンヤ君は、私の体を支えながらも、狭い空間において、作業現場に一番近い隊員の一人でもある。そのため、本来の作業もせねばならず、大変な役回りとなった。彼が本来の作業に集中すると、私の体をささえるのがおろそかになってくる。「ちょっとシンヤ君、体が落ちてきた、もうちょっとささえてくれんか」などとお願いしたことも、一度や二度ではなかった。しかし、シンヤ君は体を支えたり、水をくれたりだけでなく、至近距離からしばしば励ましの声をかけてくれるなど、一番身近で世話になった隊員である。どこのレスキュー隊員かは確認できなかったけれど、今でも感謝している。
 このように、今だけはレスキューの隊員は、何でも私の言うことを聞いてくれるし、何人もの人たちが、今は私一人のために一生懸命やってくれている。ただただありがたい。そして、少しでも時間が過ぎていくことを祈る。
 やがて、レスキューの隊長のような人が、「このままのやり方ではだめだ。座席を取り外して周りから攻めよう」と判断した。私も、素人目ながら、間近で何時間も作業を見ていて、スプレッダーでいくらやっても、もうダメかもしれないと思っていた。途中から、同じ試行錯誤の繰り返しにもなっていた。結果的に、この作戦変更は功を奏することとなる。
 作業の進展とともに、私の下の方にいた、右手が挟まれている男の人が私の左脚の上に、そして私の左でもう一人亡くなっている人が左胸の上に、それぞれもたれかかるような形になってきて、その重みに耐えるのがだんだん辛くなってきた。レスキューの人にそのことを訴えると、上の座席シートの端にあるメッキ仕上げの手すりに、赤いロープを引っ掛けて、亡くなっている方を少し吊り上げてくれ、楽になった。
 後日、尼崎市消防局から発表された写真の中に、赤いロープが結ばれたこの手すり部分の写真があって、「まさに私の上の光景だ!」とドキッとしたことがある。確かに私が挟まれている間に、写真を撮られたことは覚えている。なんとやく嫌な気持ちもあったけれど、腹は立たなかった。むしろ、どうぞ資料に残してくれという気持ちになった。
 しかし、いったん設定した目標の14時が近づいているのに、いっこうに脚は抜けそうにない。我慢の個人的な目標を、再設定しなければならない。何時まで我慢せねばならないのだろうか・・・
… 3 …
 やがて、男性が車内に入ってきた。医師だ!
 彼は、僕とほかの3人の男性の脈や瞳孔を、丁寧に調べはじめた。そして、ひととおり調べ終わると、レスキュー隊に対し、僕を最優先に救出すべしとの助言を行った。あとで知ったことであるが、これはトリアージといって、今回のように多数の傷病者が発生した場合に、傷病の緊急度や程度に応じ、治療や搬送の優先順位を決めるという、災害医療における重要行為である。トリアージは人の命に直接かかわるので、慎重になるのは私にもわかる。
 しかしこの判断は当然だ。ほかの男の人はすでに亡くなっているし、レスキューの方々は、ここ何時間かは僕を救出するためだけに、一生懸命作業をしてくれているのだから、と思った。と同時に、医師がもし私を最優先に、と言ってくれなかったらどうしようと、不安になったことも確かだ。このとき、酸素マスクもつけてもらったような気がする。
 この医師がいったん引き下がった後、少ししてから次の医師がやってきた。これもあとでわかったことだが、どうやら同一人物であったらしい。しかし、そんなことが判る余裕はなかった。
 少し若々しく見える医師は、声を張ってはっきりと言った。
「私は済生会○○病院の○○です!」
 驚いた。まずはじめに、自分の所属と名前を名乗る医師は初めてだ。ただ、○○の部分は、いずれも聞き取れなかった。しかし、病院名に関しては、私が以前から知っていて、おそらくこの事故現場から一番近いと思われる、中津(済生会中津病院、大阪市北区)でなかったことは、はっきりわかった。
「点滴をさせていただいてよろしいでしょうか!」
 このとき咄嗟に、点滴は疲労時や病気のときに、元気をつけるためにするものだという、無知かつ稚拙な思考が働いて、
「僕は元気だから大丈夫です」
と、いったん断ってしまった。すると医師は、今左脚を挟んでいる障害物が取り除かれ、解放された時のクラッシュ症候群───救出とともに血液の流れが回復すると、長時間圧迫され壊死していた筋肉から、有害物質が全身に広がり、急性腎不全や心不全を招いて、最悪の場合、死に至る症状。別名挫滅症候群───の回避のために、点滴が必要であることを丁寧に説明した。
「それは失礼しました。よろしくお願いします」
「それではシャツの袖を切らせていただきます」
 どこまでも丁寧な先生だ。もう服なんて、どうでもよい状態になっているのに。
 着ていた上着やシャツの右長袖が切られ、点滴が始まった。シャツの襟口を緩めてもらったり、てきぱきと処置が行われる。これも後でわかったことだが、遠く滋賀県から自主的に駆けつけてくれたこの医師の、いわゆる「がれきの下の医療」によって、クラッシュ症候群が大いに緩和され、ひいては私の命も救われたのである。
 ただ、挟まれている人間の心情としては、「医師がこんなぐちゃぐちゃな現場に、わざわざ来てくれた!」という感激、それに心理的安心感が大きかった。救出作業に大きな進展が見られない今、医師がそばにいてくれているということは、なんという心強さであろう。それまで時間が過ぎることばかり気にしていた消極的思考が、少しだけ前向きになったことは間違いない。
 私の体をずっと支えてくれているシンヤ君が、点滴袋も持ってくれたような気がする。そして、医師が措置をしている間も、レスキューの作業は、徐々にではあるが、進行していた。あるとき、右方にいたあるレスキューの人が言った。
「兄ちゃん、今から裏に回って、足の裏の方から攻めてみる。靴をたたくから、自分の足やったら言ってくれ」
 口にしてある酸素マスクを、手で持って少し外してから答える。
「わかりました、お願いします」
 そして、何人かの隊員が裏に回っているのがわかった。やがて、下の方から声がする。
「兄ちゃん、どんな靴履いてるん?」
「ティンバーランドのこげ茶色の革靴ですっ!」
 大きな声で叫んだ。
「じゃあ、これかなあ?」
「ちがいます」
「じゃあ、これ?」
「いや、ちがいます」
「おかしいなぁ・・・」
 これだけはっきりと靴の特徴を言っているつもりなのに、裏に回った人はティンバーランドがわからないのか。それとも、靴のロゴがわかるような状況でないのかもしれない。
 いや、もしかしたら、裏に回った人は私の靴をちゃんとたたいているのに、私の左脚の足先はすでに死んでしまって、神経が反応していないだけなのかもしれない。瓦礫に挟まれているすねの部分はあまりにジンジンしており、その先の足首や足の指などへの、自分自身の発する信号の行き帰りが実感できない。つまり、足首や足の指の動かし方自体を忘れてしまったような感じになっているし、信号が帰ってくるほうも、挟まれているより先の、どの部位の感覚もよくわからなくなってしまっている。
 ついにやってもたか・・・と思う。普段は容易に手の届くところにある自分の体の一部が、今ではとんでもなく遠くにある。それも、すでに実質的には別個体になっているのかもしれないと思うと、やりきれないものを感じる。
 何回か、靴確認のやり取りが続く。ということは、私以外も含め、たくさんの足首があるということでもある。
 いったんこの靴たたき動作が中断して5分ほど経ったころだろうか、また下の方から声がする。
「もう一回行くでぇ、これかなあ?」
 そのとき、靴の裏がトントンとたたかれる感触がわずかに、しかし確かにあった。
「それです、それですっ!」
「よっしゃわかったっ!」
 全身からいったん力が抜けた。いやぁ、まだ脚は死んでなかったのだ。あぁ、よかった・・・
 これで裏にいるレスキューの人の弾みがついた。裏の方で、作業が進む感触がするようになった。この足の裏側の作業も、全体の作業の進捗に大いに役立ったようだ。もうこの頃には、まもなく解放されるに違いないという実感があり、マイナス思考は完全に消えていた。そして、それから十数分ほど経っただろうか、そばの隊員が叫んだ。
「よっしゃ、これでぬけるぞ!」
 挟まれていた辺りを見ると、たしかに隙間ができているように見える。しかし、私のすねの感触は、相変わらずジンジンとしたままで、障害物から解放された実感はなかった。左脚を自分で抜こうとしたが、もう動かなかった。今度は何かに引っかかってではない。自分の能力的に、脚自体が、そして体さえもが、全く動かせなくなっていた。
 そのため、何人もの隊員たちが、不自由な足場と体勢の中、力を合わせて私の大きな体を抱えて、引っ張ってくれる。靴は、今度は脱げないようにしようと思えばできたが、もはや役立たずのものである。脱げるに任せた。そして、体が自分の頭の方向に、確かに抜け出てゆく。ああ・・・助かったのだ・・・
「担架っ!担架だっ!」
 隊員の声が弾む。そして皆口々に、
「兄ちゃん、よう頑張ったな!」
と声をかけてくれる。
 すぐさま担架が運び込まれ、皆に抱えられながら、体は担架に移され、担架についたベルトが締められる。そして、運び出されかけたところでいったんストップがかかり、
「運ぶときに首が動いて危ないことがあるから、念のためこれをはめるからな」
と言われ、何かが首周りに挟まれる。
 体は脱水しているはずなのに、涙が両目からとめどなく溢れ出る。こんなに湯水のように涙が出るのははじめてである。それは助かったことによる喜びや安堵感からではなく、この劣悪な環境の中、いままで努力してくれたすべての人への感謝の気持ちからであった。
 涙でよく見えない目をカッと見開いて、左右にいる一人ひとりの顔を見て叫んだ。
「ありがとう、ありがとう」
 口の酸素マスクを外していないので、モゴモゴになった声はよくは聞こえていないだろうが、そんなことを気にしている場合ではない。思い切り大きな声で叫んでいた。そうしたかった。隊員たちも、
「よく頑張った!」
と口々に激励してくれる。一刻も早くここを出たいという感情のほかに、お互い限界状態の中で頑張った男達の仲間意識というのか、熱い絆のようなものを感じ、もう少しこの場にいたいという、明らかに矛盾した思いも芽生えているのを感じた。
 記録によると、14時25分───二列になったレスキュー隊員や消防隊員たちの手によるバケツリレーによって、5時間閉じ込められた空間から脱出する。担架を持ってくれている一人ひとりにも、「ありがとう!」「ありがとう!」と熱く叫びながらも、どんなところにいたのかが気になり、搬出経路を冷静に確認するもう一人の自分もいた。
 すると、まず車内を後方へ平行移動した後、左側面の破れた窓からいったん下の車外に出され、車体の外沿いに、窓から屋根部分まで、再び平行移動するのがわかった。そして「よいしょ!」という掛け声とともに、担架は持ち上げられ、それと同時に眩いばかりの明るさの下に身が晒された。ようやく外に出たのだ!
 引き続き、大粒というより滝のような涙が目から吹き出て、「ありがとう!」と叫びながらも、今度は報道のカメラがいないかが気になっている自分がいる。こんなやつれた姿で大泣きしている情けない姿が、新聞に載ったりテレビに映るのはいやだ。
 しかし、幸いにもスチルカメラもテレビカメラもなかった。少しほっとする。このあたりを撮影するために、報道各社のバケットクレーンが立ち並んだのは、私が救出された1~2時間後のことであった。
… 4 …
 すでに救急車が待ち構えていた。救急車の乗るのは生まれて2回目だ。その後部ドアが閉まった瞬間、車内の救急隊員に、相変わらず涙ながらに叫んでいた。
「現場でのレスキュー隊員たちに、ありがとうと礼を言ってください」
「わかりました」
 この救急車に同乗している救急隊員からすれば、僕を助けてくれたレスキュー隊員たちが、どこの誰だか知る由もないはずであるから、そんな伝言が果たせないのは頭では判っている。それでも、相変わらず感謝の言葉を発せずにはいられない自分がいた。
 車が動き出す。しかし、それにしても乗り心地が悪い。後輪のばねが、跳ねているように感じる。自分の体は、しっかり固定されているために、ストレッチャーから転げ落ちるようなことはないのに、いつの間にか体に力が入っている。この救急車が旧型で、サスペンションが、商用バンのような板バネなのだろうか。もしも私が金持ちならば、もっとサスペンションのいい救急車を寄付したいとさえ思った。
 もっとも、後日、この救急車に同乗していた医師に聞くと、私が乗ったのは現代におけるいたって標準的な救急車で、乗り心地もこんなものであるとのことだった。今から思えば、車の少しの振動が、骨折や打撲をした部位にひびいて、辛かったのかもしれない。
 そして、そばにいる隊員に、自分の名前と自宅の電話番号を言って、ここに電話連絡してほしいという旨を伝えた。隊員はメモをとってくれたが、この救急車から直接連絡がいったかどうかはわからなかった。
 しかし、恐ろしく寒い。悪寒がする。体が震え、歯が音を立てるほどがたがたする。かといって、同乗の救急隊員は、格段の処置をしてくれるわけではない。それでも、彼らに特に何かのお願いはしなかった。もう着くだろう、そればかり思っていた。
 ところが意に反し、なかなか病院に着かない。20分以上乗ったように感じた。どこに向かっているのだろう・・・もうこれ以上着かなかったら我慢ならない。そう思ったころ、ようやく病院に滑り込んだような感覚があった。
 扉が開く。思ったよりゆっくり丁寧に、私の載ったストレッチャーは救急車から下ろされた。再び報道のカメラがいたらどうしようと思う。しかし、またいなくてホッとする。
 救急処置室に直行する。もう体は動かせず、上を向いたままであったから、蛍光灯の列ばかりが眼前を流れてゆく。
 処置室に入ってストレッチャーが固定され、ちょっとしてから医師や看護師が群がってきた。これもイメージと違い、ゆっくり、落ち着いてという感じだった。テレビドラマだったら、こういうときはすぐ医師やナースが駆け寄って、慌しいシーンとなるのに、現実は意外に落ち着いているものだ。これは、私の出血がそれほどでもなかったせいなのか。
 診察台に移された後、着ていた服に縦横に鋏が入って、裸にされてゆく。そして、最後にトランクスにも鋏が入る。この後の入院生活で、下半身を女性看護師に晒す機会が多くなり、こういうことに抵抗はなくなってゆくのだが、このときはさすがに一瞬動揺したため、「いいですか?」と訊ねられてしまった。そして、コンタクトレンズも外されて、視界がぼやける。
 幸い、ガラスの破片はそれほど浴びていなかった───それでも後日、初めてシャンプーをしたおりに、髪の毛の隙間からかなり出てきた───が、左脚を中心に、数え切れないほどの創傷があった。傷口の周りの数カ所に、局部麻酔の注射がなされた後、針が入っていく。お尻に近い部分は、ホッチキス状のものでパチンと留められる。小さな傷にはテープ状のものが貼られる。
 そんな処置がなされている間に、尿道の中に透明なチューブが差し込まれる。これは、尿を本人の意思に関係なく、自動的に出すためのものである。本来ならチューブが差し込まれる瞬間は、飛び上がるほど痛いものだそうであるが、体のあらゆる部分が痛くなっている今、それほど気にはならなかった。
 体の下から上のほうへ、処置部があがってきて、最後に医師が言った。
「あれぇ~、口の上に穴が開いてるな。ちょっと待ってくださいよ。」
 やわらかい、ストローほどの長さの棒を持った手が、鼻の下に近づいてきた。そして、口を開けていないのに、そのやわらかな棒が前歯に当たる感触があった。
「うわ・・・」
 私は男性で、すでに中年である。さらに、決して2枚目ではないし、別段、見た目が商売道具というわけでもないので、どうでもいいではないかと思われるかもしれないが、さすがに顔に穴が開いたことはショックであった。
 この穴に関しては、口の裏側から傷の周りの数箇所に麻酔の注射があった後、針が差し込まれ、縫合された。左目の上にも切り傷があったが、これはテープによって措置された。
 これら一連の措置がなされている間に、妻が来たのがわかった。泣きわめきながら、腰を抜かすほどの勢いであることがわかる。心配するといけないと思い、こちらから「大丈夫、大丈夫やから」と声をかける。そんなに大丈夫ではなかったけれど。
 というのも、乗っていたストレッチャーから診察台に移ったり、あるいはレントゲンを撮ったり、ICUのベッドに移るために、体を動かされると、とんでもなく痛いのである。それこそ、今まで生きてきて、体験したことのないほどの痛みである。必死に歯を食いしばっても、「うーっ!」という声を出さずにはいられない。あばら骨が4本折れているためであった。
 ICUのベッドに横たわると、少しだけ落ち着いた。親戚や会社の人が、慌しく動いてくれているようだ。いやがおうにも、今日起きたことを頭の中で反芻してしまう。あの電車に、特に普段乗らない一番前の車両なんかに乗らなければよかった・・・一本あとの電車でも、大阪到着はほんの数分しか違わないのに・・・何度後悔したかわからない。
 明治の鉄道黎明期に、日本最初の鉄道である新橋~横浜間のレール幅を、狭軌(JR在来線や、大半の関東私鉄のレール幅)でなく、より幅の広い標準軌(新幹線や、大半の関西私鉄のレール幅)にしていれば、力学的に転覆は起きなかっただろうにとも思う。建設費の安い狭軌を採用したがために、そしてその後、標準軌への改軌を図る動きが政治がらみで中止になったために、一世紀以上もたった平成の世になって、この私がこんな目にあうことになるとは・・・。
 そして全体の状況を知るために、テレビは無理だとしても、とにかく新聞が見たい。しかし、私の精神的なことを考えてか、誰も見せてはくれなかった。
 相変わらず、左脚の感覚は変なままである。そして左脚はもちろんのこと、首と腕と右脚以外は、まったく動かなくなってしまった。もちろん寝返りも打てない。事故現場で挟まれている時には、上半身が動かせたことを、奇跡のように思う。点滴はやがて両腕になった。これで両腕に点滴、鼻には酸素チューブ、下半身には尿チューブと、私は半ば植物人間と化した。
 医師はとにかく尿が出ないと、と言う。まさにクラッシュ症候群の心配からである。CPKという、血液中のカリウム系毒素の値が、通常200程度であるはずなのに、14000もあった。このままでは、命が永らえても、人工透析が必要な体になってしまう心配があった。
 医師によると、今晩がヤマとのことであった。ひょっとすると、明日を迎えられないのかな、とも思う。今こうやって意識はあるのに、これで終わってしまうのか───
 その夜は寝付けなかった。興奮や不安からだけではない。左足首に、言葉で言い表せないような違和感があり、少し時間が経つと、すぐ気持ち悪くなってしまうからである。かといって、自分の力では左脚は全く動かせない。そのため、たびたびナースコールを押して、左足首の位置を変えてもらう。看護師は、遠慮なくお呼びくださいといってくれるけれど、やはりぎりぎりまで我慢してしまう。
 それでも、10分おきくらいにナースコールを押す羽目になった。ただ、その晩はたまたま、インターンと思われる、研修の若い男の看護師がおり、彼は遠慮なく呼んでくださいよ、どうせ夜通し起きていますからね・・・と言って、私がナースコールを押す前に、自主的に来てくれることが多かった。これは本当にありがたく、この看護師には感謝してもし足りないほど、大変世話になった。
 浅い眠りが明けた事故の翌日が、打撲や骨折による痛みが、後にも先にも一番酷かった。顔を含め、体じゅうが痛む。妻によると、顔や左脚をはじめとする、体の腫れも一番ひどく、正視できなかったそうである。首も、この日からまったく動かせなくなった。一種のむち打ちなのであろうか。
 もうこれで、両腕と右脚、そして口しか動かなくなった。情けないを通り越して、なんでこんな目にあうのだろうと思う。そんなに日頃のおこないが悪かったのだろうか。昨日の事故前のように、いつか自由に体が動かせる日は来るのだろうか。体じゅうの痛みもあって、マイナス思考ばかりが頭をよぎる。
 ただし、見舞いに来てくれた人に対して、事故の様子などを語る口だけは、元気であった。精神的に、半ば興奮状態であったのであろう。
 この日はよいこともあった。まずひとつは、尿が出始めたことである。一番心配されたクラッシュ症候群の症状が、和らいできたのである。
 そしてふたつめは、内臓の損傷がなかったために、食事を摂ることが出来るようになったことである。挟まれていたときに、もし内蔵がやられていたら・・・と思いながらも水を飲んでいたことは、結果的には間違っていなかったのである。
 わずかに肺に挫傷があって、少量の血がたまっているようだが、それ以外に臓器の損傷はなく、2日目の夕食から普通に食べられるようになった。ただ、普通にといっても、体は動かないから、誰かにスプーンで口に運んでもらう必要があった。まさにゼロ歳児状態である。
 しかし、久しぶりのメシはうまかった。最後になんとか一人で食べた、ごく普通のみかんの缶詰が、涙が出るほどうまい。というより、実際涙が溢れ出た。
 2日目の晩は、つらい左脚の違和感を少しでも忘れるためにも、妻が置いていってくれたiPodを聞いてみる。妻と私は、いつも音楽の趣味が全く合わないのだが、そのときはたまたま、自分が大学生のころ大好きだった、Bruce Hornsby & The Range の 「The Way It Is」という曲が聞こえてきた。それを聞いていると、若くて元気だったころを思い出すとともに、俺は今、こんなところで何をしてるんだろうとほとほと情けなく、またまた涙が溢れ出てくる。
 左の人差し指と中指も負傷して、爪の中の内出血がひどく、2本の指に全く力が入らない。これらは、私の仕事上、大切な指であるのだが、下手ながら好きなピアノを弾くためにも、重要な指である。唯一のレパートリーであるガーシュインも、もう弾けなくなったのかな・・・とピアノを前に座っている自分を空想してしまう。ピアノが表に立つ 「The Way It Is」 を聴きながら、涙が止まらない。
 ICU内だけに、看護師がしょっちゅう前を通る。涙を流していることがばれないようにしなければと思うが、抑えることができない。しかし、なんでこんなに涙もろくなってしまったのだろうか・・・
… 5 …
 3日目に、ICUから一般病棟に移された。重傷であることもあって、ナースステーションに近い、モニターカメラが付いた個室が私の病室となった。この部屋が、私にとって、自らの再生をかけた当面の「戦場」となる。
 そしてこの頃から、私が事故車両に遺してきた遺留品探しも本格化した。私の勤めている会社の人たちが、JR尼崎駅近くの引き取り会場と、病院との間を奔走してくれて、いくつかのものが戻ってきた。
 まず帰ってきたのが鞄であった。家族が買ってくれたばかりの、まだ真新しかった黒い鞄は、外側だけでなく、中まで血だらけで、すでにカビが生えていたとのことであった。そんな状態であったから、中身だけ抜いて、すぐ家族が廃棄し、私は鞄そのものは見ていない。
 だだ驚くべきことに、鞄の角には、なんと「肉片」がついたままであったという。これでは、事故に直接あっていない人までもが、PTSDにかかってしまう。これくらいJRも考慮してほしいものである。
 携帯電話も帰ってきた。既述したように、事故の瞬間に膝の上に乗せていたために、どこかに飛んでいってしまっていたものである。折りたたみ式のブルーメタリックの筐体は、折りたたみ部の近くで、折りたたみ方向とは逆へ、真っ二つにひびが入っていた。また、折りたたむと外側になる方にある小さい方の液晶にも、割れてひびが入っており、もちろん電源が入る気配さえない。
 妻がドコモに相談したところ、特殊な装置で電源が入らないか試みてくれた。ドコモは非常に協力的で、経営陣によるトップダウンにより、会社全体で私たち被害者のことを支援してくれていた。しかし、残念ながら電源は入らなかった。
 もはや電話機が使えないことが分かっているのに、ここまでして電源だけでも入ってほしかったのは、電話帳データを取り出したかったからにほかならない。パソコンに携帯電話のデータを取り込んで管理するソフトを持ってはいたのだが、ずぼらな私は、なんと2年近くもバックアップを取っていなかったのである。そんなに長い間取っていなかったとは・・・と後悔したが、まったくもって後の祭りである。この2年間に新たに出会った人の電話番号やメールアドレスをすべて失ったということは、この2年間の自分の「進化」を否定されたような気がするほど、残念なことであった。
 その一方で、もしかすると自分の命を救ってくれたかもしれないノートパソコンも戻ってきた。原形こそ保っていたものの、これも衝撃で壊れており、やはり電源は入らなかった。
 このパソコンのハードディスクの中にも、大切な仕事のデータや写真が入っている。こちらの方も、携帯電話並みに近年バックアップを取っていなかったので、これまで築き上げてきたものすべてが無くなってしまったかと落胆していたのだが、その後、会社の人が大変な努力をしてくれて、なんとハードディスク内のデータを取り出してくれた。
 これは本当にうれしい知らせであった。作業をしてくれた人の話を伝え聞いたところによると、ハードディスクにまで血がこびりついていたそうである。そんな状態から、よく大切なデータを取り出してくれたものだと、感謝してもしきれない。
 血が付いていたといえば、事故の時穿いていたズボンのポケットの中にあった、財布、そして家や車の鍵もそうであった。これらは、私が病院に運び込まれて処置を受けた際、切り刻まれた衣類とともに、ただちに病院から返却されたものの、財布の中の札までもが全面どす黒くなっていたほか、車の鍵にも血がこびりついていたという。さすがに特殊なタイプである車の鍵だけは、簡単に合い鍵交換というわけにもいかないので、妻が必死に磨いてくれた。おかげで、傷が多くなったくらいで普通に使えるようになった。
 一般病棟に入ってからは新聞も見せてもらえたし、病室にテレビも設置され、ようやく自由にニュースに接することができるようになった。やはりニュースもワイドショーもこの事故関連ばかりで、まだ一両目や二両目などから遺体が収容されていた。ニュースを見ている一般の人は、なんでこんなに遺体収容に時間がかかるのか、分からないだろうと思う。
 しかし、これら一連の報道を見てようやく、私の乗っていた一両目の車両が横倒しのまま、マンションの地下駐車場部分にもぐり込んでいたことがわかった。自分が見て感じた状況と一致し、深く納得する。そうか、挟まれていたときに見上げた、打ちっ放しのコンクリート面は、地下駐車場の天井部分だったのか・・・さらに運び出される時、いったん下方向に行くことができたのも、地下駐車場のピット部分があったから可能だったのか・・・そして何より、私が5時間閉じこめられていた現場が、救急車の音もヘリコプターの音もしない、異様なほどの静寂に包まれていた、一番大きかった疑問が氷解した。
 このころから、テレビや新聞では、脱線原因についての解析が盛んになっていた。評論家や大学の教授が、線路と車輪の模型を前に、訳知り顔で「これはせり上がり脱線です」などと、明らかに事実と異なっていることを言い、他の出演者たちが難しい顔をしながら頷いている。ひどいところでは、電車は転倒して脱線したのに、脱線防止ガードレールがあったら大丈夫だったと、大間違いの説教を垂れる者までもがいた。
 非常に腹が立つ。僕自身が、今すぐにでもそのスタジオに駆けつけて、本当の脱線原因を、そして真実を皆に伝えたいと思う。しかし、体はちっとも動かせないのでどうしようもない。電車が転倒脱線したことが一般に信じられるようになったのは、その後、電車が衝突したマンションの手前左側にある架線柱が、少し高いところで折れていたことが明らかになってからである。
 やがて死者が100人を越えた。なんということであろうか。この科学技術が発達した現代に、死者が100名を越すほどの列車事故が起こることがあり得るのだろうか、と思う。スピードの出し過ぎで、カーブを曲がりきれなかったというこの事故は、明らかに初歩的かつ前近代的であり、陸蒸気が走っていた明治の鉄道創生期くらいの次元の低さの事故である。しかし現実に悲劇は起き、100名を越す方が亡くなり、私のように、多くの人が苦しんでいる現実がある。
 JR西日本が悪いに違いないが、企業というものは、形の見えるようで、ある意味直接見えない、社会的集団である。それでは、どこの誰に怒りをぶつけるべきなのであろうか。経営者や現場責任者にぶつければ、それですむのか。それとも会社から圧力を受けていたとはいえ、そして既に亡くなっているとはいえ、やはり運転士なのであろうか。私たち被害者の怒りは、直接顔を合わせるJR職員に向くことが必然的に多くなるが、非現業部門から派遣されていることが多い彼らとて、事故後たまたま担当になったにすぎない。言いようによっては、彼らも被害者でもあるかもしれない。
 もちろん会社の責任は、経営者をはじめとして、社員全員の責任でもある。よって、僕らと直接顔を合わせることとなった職員にも責任の一端はあると言えるが、その後盛んになった非番の職員によるボーリングや宴会、ゴルフたたきの論調には同感できなかった。特に、そういう「不祥事」を見つけることに躍起になったり、記者会見で横柄な態度をとるものが出始めたマスコミには、自分もその端くれながら、筋違いぶりに大いに落胆した。
 だが、決定的に悲劇的であるのは、この怒りをどこかにぶつけたところで、体はちっとも治らないという現実だ。それでも、命を永らえただけマシと思わなければならないのか。
 子供の頃、阪急宝塚線で、下り勾配のまま終着宝塚駅に入っていく電車の運転席付近にかぶりつきながら、もし運転士が気を失ったりしたら、即座にこの僕が運転室に入って、ブレーキをかけて皆を助けてやる───といつも思っていたことを思い出す。そのころは、客室側から2つの差し金をはずすだけで簡単に乗務員室に入れた(はずの)手順も知っており、いつも終着宝塚駅に入る頃、ひとり身構えていたものだ。
 もし時計の針を戻すことができたなら、そしてこの僕が、事故を起こした快速電車の乗務員室後ろに立っていたならば、さすがに早めに異常に気づいただろう。そして、今は施錠されている乗務員室に入ることはできないまでも、ガラスをたたくなりして、あの運転士に注意を喚起することはできたはずだ・・・そうしたらこの大惨事は防げたのではなかろうか。自分が乗務員室にかぶりつきで乗っていたら事故は未然に防げたかも・・・という思いと、それとは逆に、いつものように後ろに乗っておけばこれほどの怪我をすることはなかった・・・という思いが交錯する。
 事故以前の日常に戻れれば───と何度思ったかわからない。これは、私だけでなく、事故で亡くなった方の遺族をはじめとする、多くの人が思ったことだ。この事故を経て、被害者だけでなく、事故現場周りの人や加害者であるJRを含めて、誰もが悲しむべき結果になっているのだ。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
 そんな時、大変驚かされ、落胆させられた続報が耳に入った。それは、対向列車である特急列車が、事故現場直前で緊急停止し、多重事故を免れたのが、事故列車の車掌の措置によってではなかったことである。通常、このような事故が起きた場合、当該列車に乗務している車掌がまずせねばならないことは、対向列車や後続列車との多重衝突事故を防止するため、列車防護無線で緊急停止信号を発報し、周りの列車を止めることである。これは鉄道員にとっては常識中の常識である。
 しかし、車掌は気が動転したのか、おろおろするばかりで、乗客に指摘され、ようやく会社に連絡を取ったような状態であったという。そして、防護無線機を押したが、作動しなかったということらしい。防護無線機を押さなかったのか、それとも故障していたのかは、事故調査委員会の調査を待つとしても、いずれにしろ、結果的に列車防護無線が発報されなかったことは大問題である。
 では、対向の特急列車はなぜ止まったのだろうか。これは、脱線現場脇の下り線の信号機が脱線車両と接触・故障して赤表示になった影響で、特急電車があらかじめ徐行していたことに加え、現場南側の踏切の異常を示す、特殊信号発光機が発光していることを、特急の運転士が確認したからだそうである。
 特殊信号発光機が発光していたのは、事故を目撃した通りがかりの女性が、対向列車が来ると危ないと思い、踏切に設置されている緊急押しボタンを押したことによる機転かららしく、これは言うまでもなく特大ファインプレーである。
 しかし、このような措置が乗務員でなく、一般市民からなされたことは、JR西日本にとって、恥ずかしいを通り越して、ただただ情けない。だいたい、航空機でも飛行中、何かトラブルがあった際には、乗務員が「慌てないでください」とやるのが当たり前だ。その一方で、このざまは何だ。
 個人攻撃をするのは本意でないが、もう少し機転のきく車掌がこの快速電車に乗務していたら、この事故を防げたのではないかと思う。私のように、ノートパソコンの作業に集中していた素人でさえ、脱線直前───残念ながら、わずか2~3秒前だったが───におかしいと気づいたくらい、わかりやすい異常運転であった。いくら最後部の車両に乗務していて、常に運転状況に集中していなかったとしても、いつも同じ最後部に乗務しているプロなのであるから、塚口駅を通過して分岐ポイントをやりすごしているうちに、いつもと違うとか、ブレーキがかかっていないのはおかしいとか感じるはずである。
 真偽のほどは不明ながらも、事故直後の報道では、車掌は司令所に「脱線しそうだ」と連絡していたという話もある。もし、これは危ないと気づいていたのなら、なぜ自分の判断で非常ブレーキを引けなかったのだろう。
 何を結果論を言っているか、と思われるかもしれない。確かに、駅で電車がオーバーランをしたような場合に、車掌がなぜ非常ブレーキをかけなかったのかと責められたりするのは、酷な話であると思うが、この事故に関しては、あのカーブ直前に非常ブレーキを引けた(正確には列車緊急防護装置のスイッチを押せた)と確信する。それほど、事故直前が異常な運転状態であったことは、私も他の乗客も実感しているのだ。
 事故列車に乗務していたのが、機転のきかない車掌であったこと、そしてそのために、最後の砦が働かず、事故を未然に防ぐことができなかったのは、大変な不幸であった。彼が所属する組合も、彼があまり優秀でないことを察知しているようで、車両最後部でどんな大けがをしたのかは知らないが、未だに病院に入院させてかくまっているようである。これはこれで、4つの労働組合を抱えるJR西日本の、複雑な問題の一端が透けて見えており、考えれば考えるほど暗澹となる。
 さらに、事故列車には、たまたま乗客として現役の運転士が2名乗りあわせていたのに、事故現場から「逃げた」という事実も伝わってきた。もっとも、運転士や当人から報告を受けた上司に、個人攻撃をするのは筋違いである。これは明らかに、JR西日本という会社の管理体制が、そのような空気を作り出していたため、つまり、少々のこと───もっとも少々ではなかったが───で乗務に穴を開けるようなことがあれば、大変なペナルティが待っているために、運転士が逃げ出す結果となったに他ならない。
 もちろん、2人の現役運転士が責任感の強い、上司に逆らってでも───というような気概のある人であったなら、このようなことにはならなかったであろうが、残念ながらJR西日本にこのような人が育つ土壌や企業風土がないことは、その後の私の接した社員を見ても明らかであった。だから、当該個々人に反省文を書かせたり、処分が下されたりしたことは、残念ながら問題の本質を突いていることになっていない。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
 退屈なゴールデンウィークが始まった。よりによって、毎日好天が続き、恨めしい。あばら骨が折れているために、ベッドを操作して体を起こすことも禁じられている。見えるのは窓越しに見えるマンションの高層階と、隣接する市役所の上の方だけである。その市役所も半旗を掲げている。
 本来なら、今日はこんなことをしている日だったはずだ、などといろんなことを考えれば考えるほど、精神的に滅入ってくる。外傷的な診断としては、左膝関節・左足関節・骨盤の骨折や、左下肢圧挫傷などで、全治6ヶ月ということである。今は右腕だけしか自由に動かない。半年もこんな状態を耐えなければならないのか。
 とんでもなく長い時間を抱えることとなった。個人的に趣味を多く持っていることもあって、いつも時間が足りないとばかり感じる日常を送っているのに、それなのに、せっかくの抱えきれないほどの時間を持て余す。それも、昼だけならよいのだが、夜寝るときも左脚の違和感が気になって熟睡できず、1~2時間ごとに目が覚める。時間の経つのが遅い。ただ心臓が動いていて、1日3食のメシを食うだけの毎日だ。
 今日も朝のテレビで、定番の星占いや血液型占いをやっている。今日の一番は天秤座と言われたところで、A型さんは気をつけましょうと言われたところで、ラッキーアイテムがなにがしと言われたところで、ほんと関係ないやと笑うしかない。
 漫然とした入院生活の中で、予定らしい予定といえば、傷がふさがってゴールデンウィーク明けに始まった週2回の入浴と、5月下旬に始まった午前11時15分からのリハビリだけである。
 こうして、5月のカレンダー1枚が、ほとんど無意味な数字の羅列のまま、引きちぎられていった。


… 6 …
 松葉杖によって、不自由ながらもようやく体の移動ができるようになった6月の第2週の週末、ある知らせが飛び込んできた。翌火曜の14日に、JR西日本の垣内剛社長が、私に謝罪に来るというのだ。
 ほかの病院では、ずいぶん前に社長が謝罪にきたらしいのに、ここには来ないなぁ・・・と、ほかの入院患者と話していたのだが、おそらく、18日に予定されているJR西日本による遺族・被害者向けの説明会、及びその翌日の福知山線不通区間の運転再開が、目前に迫ってしまい、とり急ぎ来ることになったのであろう。妻がJRの担当者に尋ねたところによると、私が入院している病院は、他の病院より大阪から遠いために、訪問が後回しになってしまったという、なんとも訳の分からない釈明がなされたらしい。
 いずれにしても、急にではあるが、たいへん重要な局面が訪れることとなった。事故の加害企業の最高責任者が、この病室に来るというのである。言いたいことは山ほどある。大慌てでパソコンに要点をしたため、妻に自宅でプリントアウトしてもらう。紙は5枚になった。
 6月14日火曜日の午後、病室のドアのすりガラスの向こうに、黒い影が蠢くのが見え、やがてノックがあった。妻がドアをゆっくりと開ける。すると、一人の男の顔が見えた。わかっていたのにハッとした。テレビや新聞で見慣れた、銀縁の眼鏡をかけた「あの男」だ!
 私を担当するJR社員も一緒に入ってきたため、妻が社長一人にしてほしいと言うと、社長がその社員に病室を出るように命じた。それとともに、見舞いの品も丁重にお断りした。
 そして、「あの男」一人だけが、私の右斜め前に立った。いつも謝っている姿ばかりを見ていたからであろうか、テレビで幾度となく見たのと変わらない、頼りなく、情けない印象だ。なんでこんな男が、3万人を越す社員を擁する大企業のトップを、勤めあげることができているのだろうか。おそらく、国鉄時代から、井出正敬元会長の側近として仕えているうちに、上へ上へと引き上げられていったのであろう。本人自身が放つ、カリスマ性やオーラといった類は、微塵も感じられない。
 もっとも、非常に穿った見方をすれば、被害者である私にこういう憐れみに近い気持ちを生じさせることが、相手側の作戦によるものだったとしたら、完全なる私の負けではあるが───
 まず彼は、私の怪我の回復具合を聞くとともに、こう言った。
「この度は、私どもの・・・(以下略)」
 あ~テレビで何度も聞いた、あのフレーズだ。思わず、
「ずっと謝ってばっかり、謝り疲れてもう言葉に実感ないでしょう?」
なんて言ってしまった。
「そんなことはございません。」
 いかんいかん、これでは表面的なセリフの応酬になってしまい、本当の話し合いにならない。椅子に座ってもらってから、少し軽いジャブを放って、この男の人間性を探ってみることにする。
「だいたい企業が不祥事を起こした時、トップは世間一般が思っていること以上のことを施策として示さないと、世間は納得しませんよ。だから、福知山線の復旧・再開通の時期の選択は、御社にとって、失地を少しでも回復する、数少ないチャンスだったはずです。つまり、自らATS-P型(従来型より高機能の列車自動停止装置)の整備後としていたなら、安全性を優先する企業風土に変革しつつあるなあと、御社を見る世間の目も少し変わったかもしれなかった。それが、一日三千万でしたっけ、日銭を失うのが惜しかったのか、ATS-P型の整備を待たず、ゴールデンウィーク明けにでもすぐに再開通というようなことを匂わせ、しかも、国土交通省の同意を得られないとわかるや即撤回したことは、御社の信頼をますます落とす結果となったんじゃないですか?」
「・・・・」
「そういう観点から見ると、エフュージョン尼崎(電車が衝突した被災マンション)の買い取り価格を、こういう場合一般的とされる時価での買い取りではなく、購入時の価格で買い取ると言ったのは、満点には遠く及ばないまでも、少しは評価できます。」
 つまり、けなした後、少し持ち上げてみて、「あの男」がどういう反応をするか、窺ってみたのである。すると、最後に「あの男」の口元が、少しではあったが緩んだのを、私の目は見逃さなかった。なるほど、まったく悪い人間ではないようだが、かといってそれほど人間的に深みもなく、そして心の変化が如実に顔に表れる、政治家向きではないタイプの人間であるな、なんて思った。逆に、こういう人間なら、こちらの言うことも、少しは真摯に聞いてくれるかもしれないと期待して、用意した5枚の紙を渡す。
 彼は、いつもかけている眼鏡から、背広の内ポケットに忍ばせていた別の眼鏡にかけ替え、少し震える手で紙を読み始めた。
 私が指摘したのは、大きく分けて、管理体制の改善~安全性向上計画の実現について、事故直後の対応について、ATS-P型設置について、そしてオーバーランについての4項目であった。
 彼は読み終えると、ひとつひとつ説明、というより弁明を始めた。私が指摘したことを含め、詳述するとかなり長くなるので、ここでは彼が大きくリアクションを見せた部分や、私にとって印象的だったことを書くに留めることとする。
 彼が一番反応したように見えたのは、現役運転士が2人も現場から「逃げた」遠因として、社員に鉄道マンとしての誇りや責任感を失わさせる圧政的な教育があるとして、終戦直後に起きた鉄道事故の例を引き合いに出したときであった。これは、昭和23年に起きた近鉄奈良線花園駅での電車衝突事故なのであるが、ほとんど世間から忘れ去られており、現に彼も知らなかったので、ここで説明をしておく。
 近鉄奈良線の大阪方面行き電車は、生駒のトンネルの途中から、大阪平野に下るまで、何キロにもわたって、急な下り勾配が続いている。戦後の混乱がまだ収まりきっていなかった昭和23年3月31日、奈良発上六(現上本町)行急行電車が下り勾配の中、ブレーキが効かなくなって暴走を始めた。この電車をなんとか止めようと、たまたま乗客として乗りあわせた近鉄の職員はもちろんのこと、警察官や当時の国鉄の職員たちも、運転台まで行って手動ブレーキをかけ続けたり、空気抵抗を増やすために全部の窓を開けるなど、あらゆる方策を施した。だが、それもかなわず、電車は花園駅にて先行電車に激突してしまったのである。
 朝の満員電車で、しかも先頭車両が木造であったことを考えると、犠牲者が49人にとどまったというのは、命をかけて電車を止めようとした、彼らの努力によるところが大きかった。ただ、彼らのうちの何人かも、命を落とす結果となった。
 他社の車両であっても、命をかけて暴走電車を止めようとした果敢な行為と、今回の逃げた運転士の件は、比べようもないことは明らかで、彼も少しは印象に残ったようであった。
 車掌が周辺列車を緊急停止させる処置をとらなかったことの詳細については、車掌の所属組合に守られているのか、会社としても把握できていないということであった。事故調査委員会の調査を待つとの、情けない答えしか出てこず、自分の会社の従業員に話ができないという事態には、驚かされたともに、大いに落胆させられた。
 驚かされたというと、オーバーランについての話で、現場の運転士から、他の私鉄にあるような、定位置に停止するためのなんらかの支援システムが、要求されていないか訊ねた時もそうであった。彼は、現場からはこのような要求は届いていないというのだ。しかし、こんな手記を整理している今日も、私は福知山線猪名寺駅でオーバーランに遭遇している。相変わらず、JRの運転技術のレベルは低いままだ。
 そして、彼に強調したのは、私たち、命を永らえることが許された者は、お亡くなりになった方々に対し、JR西日本のこれからの「更正」を見届ける義務があり、私はJR西日本に対して、安全面においての債権者であると認識しているいうこと、さらにJR西日本が作成した「安全性向上計画」が確実に遂行されているのか、随時報告してほしいということである。これには力のないイエスをもらった。
 彼の力のない言い訳ばかり聞いているうちに、30分経ってしまった。同じフロアにいる、他の負傷者の社長訪問予定時刻から察すると、私に対する想定所要時間は10分のはずだ。遅ればせながらも、そろそろ話を締めにかかろうと思ったその時、今度は妻が満を持したように一枚の紙を取り出して、彼に手渡した。
 妻には、事故直後から、JR側との対応を一手に任せてきた。人数がいるばかりで、全く自主的に考えて動くことができず、ほとんど役に立たないJR職員に向き合って、そしてJR西日本という会社の体制や姿勢を目の当たりにして、彼女はかなりの不満を積もらせていた。しかも、彼女は以前航空会社に勤めていた。同じ、たくさんの乗客の命を預かる交通機関でありながら、あまりもの意識の差、体制の差を目の当たりにして、怒りを通り越して驚きを感じていたようだった。
 航空会社の事例を引き合いに出して、航空会社ではこんなことをしているのに、御社はどうなっているのか、などの指摘が進む。特に事故が起きたとき、ダイヤの復旧ばかりを重視しており、負傷者の救護に関するマニュアルがないのではという指摘には、彼は観念したように、そのとおりだと告白した。JR西日本は10年前の信楽高原鐵道事故にも関連しているのに、そのあたりの意識の低さには改めて驚かされる。遅きに失している感もあるが、今からでも航空会社に学ぶべきことはたくさんある。
 そして、妻は最後に「ブランドはなぜ墜ちたか―雪印、そごう、三菱自動車事件の深層」(産経新聞取材班著/角川書店刊)という本を手渡した。食中毒事件の雪印、経営破綻したそごう、リコール隠しの三菱自動車といった、危機管理能力の欠如した企業の実態を問い、日本企業を蝕む制度疲労を追求した本である。
 事故後のJR西日本の対応が後手後手に回り、世間の信用を大いに落としたのは、衆知の通りである。社長に会った最初に私が言った福知山線の運転再開時期に関して、当初JR側が主張していたように、旧型ATSシステムのままでも問題のカーブの手前に速度を照査するセンサさえ取り付けていれば、防げた種類の事故であるから───それでは何故取り付けていなかったのかという問題もあるが───確かに新型ATSの設置を待たなくても、旧型ATSのセンサを増設することによって、一定の安全は確保できる。
 しかし、不祥事をいったん起こし、いったん世間が疑念の目を向け始めた時には、専門的な常識よりも、私たち世間一般の素人の「常識」に対して、納得させるだけの施策や説明が必要である。それを怠った企業は、大きなしっぺ返しを食らい、ひどい場合は解体にまで追い込まれたケースまで起きたのは、記憶に新しい。
 この本の内容は知らないが、タイトルから見る限り、今回のことにも当てはまる内容かもしれぬ。
「これを読んでください」
「・・・わかりました。お預かりします。」
 そして、最後に挨拶と深いお辞儀をし、去りゆく彼の背中に、私は最後の声をかけた。
「必ず、社員を前向きにさせるような会社にしてくださいよ!」
「はいっ」
 彼は、もう一度お辞儀をして去っていった。時間はすでに一時間を過ぎていた。
 終わった───しかし、それとともに猛烈な後悔の念が襲ってきた。というのは、本当はもうひとつ、言いたいことがあったのである。しかし、私が言うのは筋違いかなあと思い、躊躇してしまったのである。
 それは、この事故を受けて、全国の鉄道事業者に対し、国土交通省令で、直線部から比べて、大きな減速幅を要するカーブの手前には、速度超過防止機能のあるATS等の設置が義務づけられたが、これにより、全国の地方私鉄や第3セクター鉄道にかける迷惑を考えたことがあるか、ということであった。
 経常利益が700億を越すような鉄道会社の社長にとって、年1~2億の赤字によって、存亡の危機に瀕している地方私鉄や第3セクター鉄道が、全国に数多く存在することなど、頭の片隅にもないだろう。しかし、経営余力の乏しい事業者にとっては、新たに設置が義務づけられたATSの設置や改修は、経営が揺らぐほどの、大きな負担となっていく現実があるのだ。
 もちろん、地方私鉄や第3セクター鉄道も、より安全になるに越したことはないのだが、安全投資や安全教育をケチった巨大鉄道会社が起こしたミスによって、ただでさえ苦しい中小事業者が迷惑を被る、そんな不条理な構図を、彼に認識してほしかったのである。極端な話、JR西日本が罰金の意味合いを込めて、いくらかの補助を出すぐらいのことがあってもいいくらいだ、と私は思う。
 しかし、こんなことを、役人でもなければ中小私鉄の経営者でもない、ただの一市民の私が言うのは、やはり筋違いであると思い、言わなかった。それでも、やっぱり言えばよかった───「あの男」と一対一で話す機会は、もうないかもしれない、こんな筋違いのことこそ、今話すべきではなかったのか・・・という思いが自分の周りをぐるぐるかけ巡ったが、時すでに遅しであった。
 社長の訪問から4日後の18日、宝塚ホテルで、事故の遺族と負傷者向けの、説明会があった。私には、タクシーに一時間近くも座り続けるだけの体力の自信がなかったので、妻だけが出席した。
 説明会の終了後、席を立とうとしていた妻に、社長が自ら歩み寄り、「この前お約束したことは、絶対にいたしますから」と言ったらしい。どうやら、彼にとっては聞き飽きた感のある、鉄道そのものに関する私の話よりも、妻の下したパンチの方が効いたようである。ただし、渡した本は、忙しくてまだ読んでいないとのことであった。
… 7 …
 6月19日日曜日、福知山線不通区間の運転再開の日を迎えた。新しい福知山線のダイヤには、それまでほとんどなかった余裕時分が加えられた。至極あたりまえのことである。
 余裕時分とは、読んで字の通りで、例えば駅で乗客の乗降に手間取って発車が遅れるなど、何らかの小さな遅延があった場合に備え、標準的な所要時間─── 基準運転時分という───に付加される時間のことである。これがなければ、列車はいったん遅れると、その遅れを取り戻すことが難しくなってしまう。
 福知山線においては、この余裕時分がほとんどなかったどころか、一部にはまったく与えられていない列車さえあったという。これは、あらかじめ決められたダイヤに沿った運行をする一般交通機関の常識を覆す、とんでもない事実であるが、私が乗った快速の宝塚~尼崎間には、まさに余裕時分が与えられていなかったというのだ。
 もっとも、JR西日本の言い分によると、余裕時分は設定していないものの、各停車駅間の基準運転時分自体が、厳密な所要時間より5秒単位の切り上げ処理をしているために、宝塚~尼崎間で合計32秒の余裕があるという。おそらく、鉄道業界の関係者がこれを聞くと、何のための余裕時分なのだと、一笑に付すに違いない。これは、言い分というより、辻褄合わせの言い訳である。それほどキツいダイヤを組んでいたのである。今まで、そんなことには全く気づかなかったが。
 このダイヤに関することでは、事故後、福知山線のダイヤが過密であるという報道が目に付いたが、実は福知山線のダイヤは、それほど過密であるわけではない。複線区間で、福知山線以上に列車密度が高い線区は、JR・私鉄を含め、いくらでもある。問題なのは、列車ダイヤの密度ではなく、それぞれの列車に与えられた余裕時分がなかったり、充分でなかったことにある。繰り返しになるかもしれないが、これは相当とんでもないことである。
 このことは、オーバーラン多発の一因にもなりうる。
 というのも、列車の運転士が停車駅の手前でブレーキをかける際、早めからブレーキをかけてしまうと、停車するまで、より時間を要してしまうのだ。段階的に緩やかなブレーキをかけるより、できるだけ遅めに大きな制動をかけた方が、停車するまでに要する時間が少なくてすむのである。これはレーシングドライバーが、減速を要するカーブの手前で、できるだけブレーキを我慢してからかけるのと、同じ理屈である。
 そのため、余裕時分がなかったり、少なかったりした場合、運転士はできるだけ遅くブレーキをかけようとするはずである。このできるだけ遅く・・・が限界を超えると、本来の停止位置に止めることができず、オーバーランしてしまうのである。
 さて、福知山線不通区間の運転再開後のダイヤは、この余裕時分をとったぶん、事故以前とは数分の変更がなされている。しかし、基本的なスジそのものは、事故当時のものの踏襲である。事故を起こした列車に相当する宝塚始発同志社前行快速の列車番号は、事故列車の5418Mから、5818Mに改められた。羽田発伊丹行日本航空123便と同じく、5418Mは福知山線においては欠番とされたのである。
 余裕時分の加えられたダイヤ改正と、日曜ダイヤによって、事故当時の時刻とは多少のずれはあるものの、この日の5818Mが事故現場にさしかかる場面は、各社のニュースの格好の的となった。病室でテレビを見ていると、事故現場に向かって手を合わせる乗客などの画の後、画面は空撮に切り替わった。
 その画面を見た瞬間、心臓が止まるかと思うほどドキッとした。5818M列車が事故現場を通過した、まさにその直後、対向の特急北近畿が反対側の線路をすれ違っていったのである。
 既述したように、事故当日の特急北近畿は、惨事を目撃した女性の機転などにより、異常な事態が発生したことが運転士に知らされ、現場の手前で緊急停車した列車である。しかしあの日、特急北近畿が、もし今日のようなタイミングですれ違っていたならば、特急を現場手前で止めるのは、到底間に合わなかったろう。そして、マンションにへばりついた事故車両と激突して、それこそ想像もしたくないような事態となっていたはずだ───
 時折、海外で列車多重事故が報道され、誠に失礼ながら、発展途上国だからこういうことも起きる・・・と思っていた面があった。しかし、この日本で、この目を疑うような事故が起き、さらにもっと被害が大きくなる多重事故が起こっていた可能性が、充分すぎるほどあったのだ。
 病室のベッドの上で、改めて自分の危機意識の低さを恥じた。
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 福知山線が全面復旧した翌週末、ようやく車椅子や松葉杖に頼らずに、自力で歩行することができるようになった。これを受けて、退院を見据えた一時帰宅をした。これまで、自分が移動するといえば、病院内か、散歩をしてもせいぜい病院から数百メートルの範囲内に留まっていたから、久しぶりの大きな移動に心躍る。
 知人が乗せてくれた車から見た車窓風景を新鮮に感じた一方で、まだ痛みが残っている脚にとっては、少し辛い道中となった。しかし、久しぶりに自宅の階段を上るときには、さすがに感慨を覚えた。
 自分の部屋は、事故当時のままであった。そんな中、事故当時持っていた鞄から妻が抜き出してくれていた重要書類が置いてあるのが見える。間違いなくプラスチック製のファイルケースの中に入れていたはずなのに、かなりの面積がどす黒く血で染まっていて、こんなものは人様にお見せできないなぁと苦笑する。
 鞄のまん中のあたりに入れていたはずの、勤めている会社のIDカードまでもが、鋭く折れ曲がっており、改めて2ヶ月前に起きた信じられない出来事に思いを馳せる。
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 7月1日金曜日、ようやく退院の時を迎えた。
 都合により、退院が夕方になったので、本当に今日退院するのだろうかといったような、不思議な感覚にとらわれながらも、昼間に「引っ越し」の準備をする。
 それにしても、この病室は、半ば植物人間状態の時から、2ヶ月以上も生活をした空間である。当然、「家財道具」も多くなった。これは、JRの担当職員が荷物運びをしてくれて、出発への全ての準備が整った。
 それでは、ナースステーションに挨拶をしよう。声をかけながら、ナースステーションを覗くと、お世話になった見慣れたナースの人たちの笑顔が見える。それこそ、入院初期には毎日していた点滴や、発熱が激しかった頃の昼夜お構いなしの度重なる氷枕の交換、そして洗髪や入浴、食事運び、部屋の掃除・・・いやそれのみならず、体が動かなかったときには、下の世話までしていただいた人たちである。「おめでとうございます」と口々に言ってくれる彼らや彼女たちの笑顔を見ていると、さすがに涙腺が危うくなって、お礼の挨拶もそこそこにエレベータに乗り込む。
 この病院には、地下1階にICUがあり、エレベータの中にもその表示がある。自分があの日、限界と闘った場所をもう一度見たいと思う。そういえば、ICUのナースの人たちも、退院の折には覗いてねと言っていたし。しかし、エレベータ内のB1の表記のところに書かれた「関係者以外立入禁止」という冷たい筆致に、なんとなく尻込みする気持ちが先に立ってしまって、地下に行くことなく、1階のロビーに出る。
 会計で、妻が退院の手続きをしてくれているのを待っている間、やはり万感せまるものがあった。こんなときに限って、普段、殆ど私とはしゃべったことのない付き添いのJR職員が、「よかったですね。」などと言いながら、右背後からすり寄ってくる。顔を見られたくなくて、思わず左に顔を背ける。
 しかし、退院の手続きが終わり、雨の降りしきる外に出た際には、さすがに感極まった。愛娘がいぶかしがる中、JRの人への挨拶もそこそこに、タクシーの後部座席に乗り込んだ。
… 8 …
 精神的には、自宅療養が一番辛い。体はある程度動くようになったのに、社会に参加することを、社会そのものから拒否されているように感じる。今は、自分が社会から必要とされていない。しかも、私が全く参加していないにも関わらず、世の中は普段と変わらないまま推移している。
 補償制度のおかげで、自宅療養をしている今も、最低限の収入はあるようだし、家でぼーっとしていても良いので、ゆっくり休めていいじゃないかという人もいるかもしれない。しかし、2~3日に1回、病院に行く用事しかない日々は、とても楽で良いという気持ちにはなれなかった。
 ただ、落ち着いて調べものをする時間だけは、充分すぎるほどある。そのため、まず、事故直後にこの車両が転倒する限界速度として、JR西日本が、東京にある鉄道総合技術研究所に依頼してはじき出した、133km/hという数字の根拠を調べてみることにした。
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 いろいろ調べるにつれ、転倒限界速度を求める公式があることが判明した。これは、力学的に導き出されたもので、以下のようなものである。

 事故当時、いくら混乱していたとはいえ、自社の車両の詳細データを持ちながら、この程度の計算ができなかったJR西日本という会社に半ばあきれながらも、この式に、それぞれのパラメータを当てはめてみる。
 ただ唯一、分からないのは車両の重心高さである。これについては、私たち外部の人間が知る由もないので、一般的に電車の重心は床面上20~30cmと言われていることを参考に、仮に床面上30cmであるとした。すると、事故を起こした207系と呼ばれる電車の床面高さは、レール面から1.15mであるから、hG=1.45(m)となる。
 そして、軌間(線路幅)は1.067(m)、現場のカーブのカント(第1章参照)は0.097(m)、曲線半径は304(m・注:のちの事故調査委員会の発表にあわせて、ここでは304を使用)、重力による加速度は9.8(m/sec2)であるから、これらのパラメータを入れて算出された数字に3.6を乗じて時速換算をおこなうと、転倒限界速度は133.1km/hとなった。
 なるほど、単純にこの公式に、これらのパラメータの値を当てはめて計算された結果が、あの当時発表された133km/hという数字だったのか・・・。そのため、一部の専門家が、108km/hくらいの速度では転倒はしないはずだと首をひねっていたのだ・・・。
 それでは、なぜ電車は転倒に至ったのだろうか。以下は、全くの一素人による勝手な考察であるから、読み飛ばしていただいても結構である。
 まず疑わしきは、車両の重心高さの数字、1.45である。
 これに関しては、1両目の私たち乗客の数が、90人であったと少なめに見積っても、6トンほどの重みが増していたはずであるが、この私たち人間の重心は、通常、ヘソと腰の間にある。そのため、たとえ電車の座席に座っている人であっても、その人の重心は、床面上30cmと仮定した車両の重心よりは高いところに位置し、結果車両全体の重心を押し上げる作用を及ぼす。
 この座席に座っている人に、立っている人のぶんも加え、乗客全員の影響を考慮した、車両全体の重心を計算してみると───高校物理程度の大雑把な計算ではあるが───車両単体の重心より、ざっと8cmほど上がってしまうことになる。
 さらに、この公式は車両が完全一体物であることを前提としているが、実際には乗り心地向上のために、台車と車体の間にバネ装置が入っている。このバネが変位して車体が揺さぶられることにより、重心は見かけ上、15~25%高くなると言われている。
 仮に、バネによって重心が見かけ上、25%高くなるとした場合、乗客による重心の偏位も加味して計算し直すと、脱線臨界速度は119km/h台にまで下がり、机上の計算的にも、実際の脱線した───と私が感じている───速度に、ぐっと近づいてしまうのである。
 ついでに、事故直後に実感した、もしJR在来線が標準軌であったなら・・・ということに関連して、狭軌と標準軌でどれほどの限界速度に差があるのか、ということも計算してみる。狭軌の場合と同様、乗客の影響やバネの変位を加味して、標準軌での転倒限界速度を算出すると、130.8km/hとなった。現実には、標準軌の場合、この曲線条件では0.097よりもっとカントが増やされるので、さらに数km/h転倒限界速度は高まることになり、やはり見た目通り、安定性に格段の違いがあるのである。
 そして、他にもいろいろ調べるうちに、ただの運とは言いきれないほど残念なことも、私の知るところとなった。
 事故を起こした列車の先頭車両にはモーターがなく、機器類が床下にあまり搭載されていない、トレーラータイプの車両であったのだが、207系電車の大阪側の先頭車両は、必ずしもトレーラータイプばかりではなかったことである。モーターありのタイプ、つまりモーターや電気関係の機器があるために自重が重く、しかもそのほとんどが床下に設置されているがために、トレーラータイプより重心が低くなるタイプの車両が、組み込まれているケースもあったのだ。
 その割合は、実に69編成中30編成、つまりおおよそ半分の割合なのである。もし、事故を起こした先頭車両が、モーターありのタイプであったならば、床下搭載機器によって重心が押し下げられ、転倒しなかった可能性が、僅かでもあるかもしれない。
 そこで、207系電車に搭載されているパンタグラフ1基の重量が200kg弱であることを参考にして、脱線したトレーラータイプに比べ、車両の重量増加分約11トンのうちの、0.5トンが屋根上に設置された2基のパンタグラフなどの屋上設備、残り10.5トンが床下の機器であるとしよう。すると、hGの数値は1.24となった。つまりモーターありのタイプは、トレーラータイプに比べ、21cmも車両重心が下がる計算になる。
 そこで、乗客やバネの影響を考慮しながら、転倒限界速度を求める公式にこれらの数字を当てはめて計算してみると、脱線限界速度はトレーラータイプに比べ、126.1km/hと、実に7km/hほど高くなるのである。
 たかが7km/hの差というなかれ、リミットを越えるか越えないかのギリギリのところでの、7km/hのマージンなのである。このことによって、電車は転倒せず、一種の暴走運転ですんだ可能性があったということである。仮に車体が転倒しなくともけが人は出たかもしれないが、これほどひどい惨事にはならなかったはずだ。
 このマージン算出の前提になる、車両重心の計算はまことに稚拙なため、専門家には笑われるかもしれない。しかし後日、ダメもとでJR西日本に対し、 207系電車の先頭車両の、モーターありなし両タイプの重心高さを問い合わせてみたら、公開しないでほしいとの約束で(何故???)、正確な数値を教えてくれた。
 きっちり計算したつもりである自分が驚くのも変だが、数字はほとんど合っていた。それでも、一般的な結論として言い切ることは、とてもできないのであるが、当日の車両のやりくりによる運で、おおよそ2分の1の確率で、この悲劇が起こらなかったかもしれないのである。
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 7月8日、JR西日本は、事故を起こした207系電車の後継として、新型通勤電車・321系の投入を発表した。
 今回の事故を受けて、新たに開発されたものと思いたくなるようなタイミングではあるが、実は事故当時、すでに開発が終わっているどころか、大阪府東大阪市の、とある車輛メーカーの工場の中では、第1編成がほぼ完成していたはずだったものである。
 何でそんな内情を知っていたかというと、事故以前に産業史を調べていた際、その車両メーカーのホームページを偶然開いたことがあって、第1編成が確か5月下旬頃に工場出場予定のように書いてあったからである。福知山線にも乗り入れるとのことで、自分も乗ることもあるだろうし、どんな車両になるのだろうかと関心があった。
 本来は、JR西日本にとって、207系電車以来、約15年振りの新型通勤電車誕生!と、華々しいデビューを飾るはずだったはずだ。だから、取材に来た記者には、この新型通勤電車が、事故を受けてどんなものになるのか注目だ、と言い続けていた形式でもある。
 今回の事故を受け、上に述べた重心の問題を考慮して、先頭と最後尾を含む、7両編成のうちの6両を、重心が低いモーター車にしたと報道されている。これには驚いた。卓越した加速性能が求められる新幹線を別にすれば、7分の6もがモーター車というのは、明らかにオーバースペックであり、かつエネルギー的にも大変不経済である。
 これはおかしいなと思って調べたら、モーター車一両につき4個載っているモーターのうち、2個を隣の車両に移すことによって、当初3両だったモーター車が、見かけ上、倍の6両になっているのであった。意地悪な言い方をすれば、JR西日本の小手先の改修でしかないが、それでもモーターが載ることになった車両の重心が下がることは間違いないし、なんといっても製造コストがかかる方法を、JR西日本が自ら選んだだけでも、進歩と言えるかもしれない。
 ただ、その一方で、今回の事故における2両目や3両目で特に問題となった、車両強度の問題に関しては、事故以前の設計のまま、変わっていないようである。これはどうしたらよいのか、大変難しい面もあるのは、素人の私でも分かる。JR西日本は、プロジェクトチームを作って研究するということらしいが、それなら321系電車の量産を止めて、さらに研究を重ねるくらいの度量があれば、立派だったのになあと思う。
… 9 …
 深くしゃがんだり、走ったりすることなどはとてもできないながらも、普通に歩くことには苦痛が少なくなり、8月から仕事に復帰できる目途が立った。といっても、脚の痛みはまだとれたわけでないし、ちょうど真夏の暑い盛りである。毎日、空調が効いていて、室温が一定した所にいることに慣れた身としては、多少の不安もないではない。しかし、精神的な喜びがすべてに勝る。
 ただその前に、是非ともしておきたいことがあった。それは、あの事故で挟まれて動けなかった時、現場に駆けつけて、「がれきの下の医療」を施してくださった先生へのお礼と、経過報告である。
 その先生が、「済生会○○病院」のどなたであったのか、事故後もずっと気になっていたのだが、自分の勤めている会社のある記者が解決してくれていた。それは、まったくの偶然からであった。
 5月のある日、その記者は、滋賀県のとある病院の医師チームが尼崎の脱線事故現場に直接駆けつけ、「がれきの下の医療」を施したことを取り上げようと、ある医師を取材していた。その際、医師の話を聞くにつれて、先生がお話されている点滴した相手の男の人って、年格好や状況からして、ひょっとして同じ会社の吉田のことではないのか───という思いがしたらしい。そして、記者が知っていた私の事故当時の状況と突き合わせると、「やっぱりそうですね!」となったという。
 その記者からもたらされた情報によって、あのとき聞いた「済生会○○病院」の○○部分は「滋賀県」、つまり「済生会滋賀県病院」であり、私に「がれきの下の医療」を施してくださったのは、この病院で救命救急センター長をされている長谷貴將(はせ たかのぶ)氏であったということが明らかになった。
 長谷先生は、誰に指示されたわけでもなく、現場近隣の病院は負傷者の受け入れで混乱しているだろうという、自らの判断によって、事故現場から大阪府・京都府を挟んだ滋賀県栗東市にある病院から、名神高速で1時間をかけて、わざわざ現場にまで駆けつけてくださったのだという。
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 社会復帰が目前に迫った7月下旬の週末に、長谷先生に直接お会いできることになった。妻と娘、そして今回は取材抜きである記者の4人で、病院へ訪問させていただき、私にとっての命の恩人との、運命的な再会が実現した。お礼を言いながら握手をさせていただく手に、思わず力が入る。
 助けてくださったお礼とともに、己の無知により最初に点滴を断ったことに対するお詫びを申し上げると、先生は明るく笑って返してくださり、少し気が楽になった。
 あの現場では、はきはきと言葉を発せられていたこともあり、先生は非常にお若く見えたが、改めてお会いしても、救命救急センター長という要職にありながら、活力みなぎる情熱的な先生であると感じた。そして、おそらく昼休みと思われる貴重な時間を割いて、様々なことを話してくださった。そのなかで、いくつもの興味深い、私にとっての新事実が明らかになった。
 まずひとつは、私は車外にいたということである。私は、マンションの機械式駐車場のピットに、折り重なるように倒れていたうちの一人だったそうである。自分の上にはそれまで座っていた座席があったし、右のほうには僅かに残された車内の空間が見えていたので、自らは車内にいたように感じていたのであるが、これには大変驚かされた。もっとも、あまりもの車体の変状により、どこまでが車内でどこからが車外なのか、私にはよく分からなかった面もある。
 さらに、現場にはガソリン臭が立ちこめていたということも、初めて知った。長谷先生のチームは、13時に現場に到着され、およそ1時間後の13時56分、1両目に生存者が取り残されているとの情報がもたらされ、消防から現場への進入を要請された。そして、マンションの駐車場ピットに入る際に、強烈なガソリン臭がするのに気付き、「引火したら私も終わりだな」と思われたという。劣悪な環境の下、駐車場ピットに入って作業されていた医師やレスキューの方々は、まさに自らの命を懸けて、我々を救ってくださっていたのである。
 改めて考えてみると、私は、少なくとも11時ごろからは、レスキュー隊のお世話になり続けていたのに、14時前になってようやく現場の指揮所に、私の生存情報がもたらされたということは、現場の混乱は、午後もなお続いていたのであろう。そりゃそうだ。あんな同時多発的に、一刻を争う状況が起き続けている現場で、各箇所の状況を完全に把握し、指揮・命令系統が整然といくのには無理がある。
 むしろ、今回はうまくいった方であるとさえ思う。その場に携わらなかった人たちが、後から「たられば」を言うことは容易いことであるが、あのとき現場で動いてくれていた人たちは、自分の職業の枠にとどまらず、使命感や人間愛をもって、目の前の難題に全力で立ち向かった、まさにプロ中のプロ集団であった。
 そして、私の廻りで亡くなっておられたのは、自分のすぐそばの3人のお方だけであるように思っていたが、実は周りには、もっと多くおられたそうである。ただ、ほかの亡くなっておられた方には、毛布が掛けられており、私の視界から遮られていたようだ。そのおかげもあって、私がPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされずにすんだのであろう。
 長谷先生にしていただいた「がれきの下の医療」は、医学用語ではCSM(Confined Space Medicine)といって、今回、私たちが受けたものが、日本で最初に行われたCSMの事例となったようである。報道でご存じの方もおられると思うが、あの阪神大震災において、多くの救えたはずの命があったことがきっかけとなって、その重要さが広く知れ渡ることとなったのがCSMである。
 先生は、救急災害医として「予防できる災害死」を減少させるために、英国式の災害医療システムを導入され、合理的かつ体系的アプローチを広めておられ、今回、自らそれを実践されたのである。先生が、現場で医療行為に入る前に、まず自分の所属と名前を名乗られたのも、先生が学ばれた災害医療の手順だそうである。そして私を診て、脱水症状が激しいとの判断で、すぐに輸液の措置をとられたのだという。
 親戚の医師が繰り返し言っていることであるが、CPK(第4章参照)の値が、14000から正常近くにまで戻ったという事例は、聞いたことがないことだそうである。長時間にわたる圧迫から解放された際の、心停止を免れることができたのはもちろんのこと、こうして早く仕事復帰できるのも、長谷先生の「がれきの下の医療」が大いに効いたことは間違いない。
 長谷先生は、医師でありながら、私たち受傷者と同じ目線の高さで話されるのが印象的であった。あの日、あの現場でそんな長谷先生に巡り会えたことは、私にとって間違いなく大きなことだったのである。
… 10 …
 8月1日、ついに社会復帰の日を迎えた。
 会社に行くと、いつもの顔が、いつもと変わらない笑顔で迎えてくれる。あーだこーだと議論したり、悩んだり、考えたりしながらも、目の前の仕事に取り組む、そんな普段通りの光景の中に自分がいることを嬉しく思う。当たり前のことが、当たり前にあること、そんなさりげないことが、実は貴重であったことを改めてかみしめる。
 体力的には少々キツくても、精神的な安定感が得られる歓びは、やはり大きい。私にとっては、社会に出ることが、何よりのリハビリだ。
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 さて、社会復帰してから1ヶ月ほど経った9月6日、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会(以下事故調)の中間報告(正確には経過報告)が発表された。この中で、いくつかの興味深い事実が明らかにされた。
 まず第一には、列車が転倒するまで、運転士はほとんどブレーキをかけておらず、問題のカーブへの進入速度が、おおよそ115km/hであったことである。これは、私の体感とほぼ一致する結果である。
 事故に至るまでの自分の記憶は、けっこう鮮明に残っていたので、カーブの進入速度が108km/hであったとされたことに、割り切れないものを感じていたことは、前にも書いた。108km/hと115km/h、ほんのわずかな差ではあるけれども、直線区間を120km/hで走行していたのであれば、ブレーキをほとんど感じないままカーブに突っ込んだので、108km/hまではスピードが落ちていないはずであった。
 また、先頭車両の運転席のブレーキレバーが、非常ブレーキの位置になっていたため、しっかりとブレーキがかけられていたのではないかとか、急ブレーキをかけたことによってバランスがより崩れて転倒したのではないかと論じられることがあって、私の感じたこととは異なっているなあと思っていたが、この引っ掛かりもなくなった。
 そして、私が特に問題視していた、列車防護無線が発報されなかった件については、車掌は発報ボタンを押したものの、事故によって装置の電源が停電してしまっていて、結果的に発報されなかったとのことであった。その一方で、電源系統を非常用に切り替えてさえいれば、防護無線を発報することができたということも明らかにされた。
 同じ207系電車であっても、常用電源が停電したときに、電源系統が自動で非常用に切り替わるタイプと、そうでないタイプが混在していたこと、そして自動で切り替わらないタイプでの電源系統の切り替え手順を、乗務員に教えていなかったことなど、総じて会社側に落ち度があると言える。ただ、現場の人間も困ったときにどうにかしろよと思うのは、普段現場で仕事をしている私だけではないと思う。
 今回の事故調の報告は、解析可能であるデータのかなりの部分を公開したという点において、中間報告としては、かなり踏み込んだ内容であると評価できる。私にとっての不満は、車掌への事情聴取の結果が反映されていないことくらいである。もしかすると、ある程度時間が経った後に出される最終報告でも、今回の中間報告に比べて、驚くような新事実は出てこないような気さえするほど、今回の報告はかなりの分析結果が反映されている。
 だが報道によると、ご遺族の方々は、なぜこのような無謀運転に至ったのかが解明されていない、このことを知りたいと訴えられている。それは私も同感だ。ただ、運転士が亡くなった以上、彼の心の中を解明することは、大変困難になってしまっている。
 私は、運転士は曲がりきれないことを承知で、わざとオーバースピードのまま、あのカーブに突っ込んだと思っている。この思いは、事故直前に「!」と感じた瞬間から、全く変わっていない。このスピードで、まさか電車が転倒するとは思わなかったとは言わせない。ある程度の電車運転の経験があれば、百十キロを越えるスピードであのカーブを目の当たりにしたとき、安全に曲がりきれないことは直感的に分かっていたはずだ。
 ましてや、何かに夢中になって、うっかりブレーキをかけ忘れたとも言わせない。電車はクルマと違ってハンドル操作がないぶん、前方から目をそらしても、即事故につながらないとはいえ、運転士が気絶でもしない限り、目の前の風景から何十秒も目を離すことはあり得ないはずだ。
 だから、わざと突っ込んだ───つまり、多少の暴論であることを承知で言わせてもらうなら、もしかしたら運転士の自殺に私たちがつきあわされたのではないのか、とさえ思っていた。だから事故後、運転士のペナルティーとして日勤教育があるような話が報じられた時には、伊丹駅でのオーバーランがあった後だけに、なるほどなと思うところがあった。
 ところが、である。以前からマスコミによって報じられていたことではあるが、事故調の中間報告においても、事故の前に運転士が同じ電車を回送運転した宝塚駅到着の際に、実に不可解な運転をしていることが、明らかにされた。
 このことについては、論じられることが多くないように思うので、事故調の報告書を基に、少し詳しく述べてみる。
 乗客がいない回送電車が、宝塚折り返しのために、宝塚駅2番線に進入する時のことである。駅手前の信号機が赤表示だったのだろうか、いったん 10km/hほどにまで減速した後、信号表示が変わったことにより加速をしたのはいいのだが、2番線に入るために右分岐する40km/h制限の分岐ポイントに、60km/hを越える速度にまで加速しすぎながら突っ込んでいる。
 ブレーキをかけ始めたのは、分岐ポイントの数メートル手前からであり、完全なかけ遅れである。それどころか、速度グラフを見ると、そのポイントのあたりでは、ブレーキをかけているのに速度が上がっている。分岐ポイントのある付近は、基本的に軽い上り勾配であるため、こういう結果が残されているのは、クルマでいうアクセルとブレーキを同時にかけたのかな、と思いたくなるような状態である。
 しかも、オーバースピードでポイントに突っ込んで、遅ればせながらもブレーキをかけて減速をし始めた頃、その次にある信号機は赤表示していますよ・・・というATS(自動列車停止装置)の警告が鳴った。これに対し、運転士は5秒以内に確認ボタンを押さなかったために、自動的にATSによる非常ブレーキがかかり、2番線のプラットホームのすぐ手前あたりで、急停止している。
 このATSの警告は、客室内にまで聞こえるほどの音量で、運転室内にベル音が鳴りひびくし、ATSの確認ボタンは運転士から見て体の正面の一番押しやすいところにある。それなのに、確認ボタンを押さずに、5秒間も放りっぱなしにするのは、明らかにおかしい。
 さらに、である。プラットホーム手前で非常停止した後、再発進して、電車停止定位置に向かっているとき、運転士は停止位置が迫っているのに、またまたブレーキを大幅にかけ遅れている。2番線の線路は、プラットホームを行き過ぎると、上下線の線路に合流してしまうので、電車がオーバーランして、脱線や衝突するのを防ぐために、停止位置の少し手前にATSのセンサーが仕込まれていて、ここである程度以上の速度超過を検知した場合、これまた自動的に電車に非常ブレーキがかかるようになっている。
 この安全機構によって再び非常ブレーキがかかり、急停車している。そして、その場所が、たまたま正規の停止位置に比べ許容範囲内であったのか、その後手動で位置を修正したような操作は記録されていない。
 つまり整理すると、宝塚駅の手前にて、速度超過しながら右分岐したかと思うと非常ブレーキにより急停車、その後動き出した後も、また非常ブレーキがかかって急停車と、素人以下ともいえる明らかな異常運転である。
 電車が止まった後、プラットホームで待っている乗客を乗せるために、ドアを開けた回送電車の車掌───実は事故を起こした電車の車掌と同一人物であるが ───は運転士が少しおかしいなとは思わなかったのだろうのか。このような運転を受けて、回送電車の”唯一の乗客”であった車掌が、折り返しのためお互い反対端の乗務員室に行く途中、運転士とプラットホーム上ですれ違ったときに、いくら顔見知りでなかったとしても、一声かけなかったのか、そしてそのときの運転士の様子は・・・など、やはり車掌に聞きたいことが増えてきた。(車掌は一声かけたという報道も目にしたことがあるが・・・)
 伊丹駅でのオーバーランを、事故と結びつけることは可能だし、おそらく関連があるのだろうが、それよりもっと前に起きた、私たちが知りうる限りでの、運転士のこの日最初の狂気の行動である、回送電車の宝塚駅2番線分岐ポイント進入時の不自然な過加速に、私は注目している。
 ただ、この宝塚駅における初歩的な運転ミスは、事故に至る一連の流れの中でも、まったくもって不可解きわまりない事象である。このことによって、かえって事故に至るまでの運転士の心の闇が、全く想像すらできなくなってしまった。
 この謎が解明されることは、果たしてあるのだろうか。
… 11 …
 脚の痛みは依然として残るものの、体はかなり快適に動くようになってきた。そんななか、一つやり残していることがあった。それは事故現場への訪問である。
 ただ、なんとなく漠然と───ではあるが、あの、死を意識するほどの凄惨な体験をした現場に、自らすすんで足を運びたくないような、そんな複雑な気持ちを、併せ持っているのも事実だ。何か都合のよい用事があればいいのにな、などと勝手なことを思ってしまう。
 事故にあって以来初めて電車に乗り、あの現場の横を通った───7月下旬のことであった───時には、さすがに相当意識したものだ。しかしそれ以来、走る電車の車窓からではあるが、献花台が置かれている現場の横を、幾度となく通り過ぎても、あまりにこざっぱりと整理されているためか、直視しても不思議なほど自分の中でフラッシュパックもしないし、実感のようなものも湧かなかった。
 また車窓から見る限り、現場に行っても、背が高く張られている白いフェンスの取り囲み具合からみて、私が5時間にわたって閉じこめられて、己の限界と闘った、あのマンション1階部分の駐車場ピットへは、入ることはもちろんのこと、あまり近付いて見ることもできないようである。すでに無人となったマンション「エフュージョン尼崎」が、将来、どのような扱いを受けるのかは知らないが、もし取り壊されるようなことになっても、その前にあのピットにだけは立ち入らせてもらいたいものだが───
 そんな事故現場であるが、ひょんなきっかけで近づくことになった。それは、警察の実況見分によってであった。
 11月12日の土曜日、尼崎東署の捜査本部から依頼を受けて、2人の男性の刑事さんと、JR尼崎駅で待ち合わせをした。凶悪犯罪などで、実況見分が行われたというニュース映像をちょくちょく目にすることはあるが、実際にどんなことをしているのかは、全く素人にはわからないものである。いったい私はどうすればいいのだろうかと少しばかり緊張していると、主に私の姿を入れ込んだ状況で、現場写真を撮りたいとのことであった。
 そのため、まず宝塚行きの快速電車に乗って、宝塚駅にまで移動する。宝塚折り返しのJR東西線直通快速は、全て事故を起こしたものと同型の、207系電車によって運行されている。
 前の方に乗ってしまったので、宝塚駅に着いて電車をいったん降り、3人で2番線のプラットホームの上を、とぼとぼと尼崎方向へと歩く。そして、尼崎方先頭1両目の、あの日、自分の乗り込んだ乗車位置にまで移動して、チーフクラスの刑事さんの指示に従い、開いている扉の前に立つ。私と電車の扉、そして宝塚の駅名標を入れ込むため、いくぶん私からは離れた位置から、若いほうの刑事さんが写真を撮った。
 普通、こんな所であまり写真を撮らないものである。周りにそれほど人はいなかったけれど、男3人が笑顔もなく写真を撮っている光景を、周囲から好奇の目で見られているような気がして、なんとなく気恥ずかしい。
 そのまま、4月25日と同じ扉から電車に乗り込む。ただ、昼間で車内はガラガラなのに、私が事故当時座っていた座席にだけ、たまたま男性の先客があった。その男性に席を移ってもらうほどでもないので、対面の座席に座って、刑事さんに当時の状況の説明をする。入院中、病室に刑事さんが来て、2時間近くにわたって事情聴取を受けたことがあったが、今回はそれと比べれば雑談風である。
 やがて発車した快速電車に乗りながら、伊丹ではオーバーランの詳しい話をするなどした。そして再び尼崎まで戻ってくると、ここからは刑事さんが手配した警察の黒い車に乗り込み、事故現場まで移動である。車で現場に行くのは初めてであり、その道順を含め、新鮮であった。
 脱線現場付近の、複線の線路の西側に沿う道路に降り立った瞬間、こんなところだったのかと、少しばかりの感慨があった。自分が体験した現場の筈なのに、自分のいたところから線路の反対側にいるだけで、よくテレビに映っていたあの場所かというような、第三者的な、変な記憶の照合の仕方をしてしまい、不思議な感覚がする。
 刑事さんは、私が初めてこれはおかしいと気づいた、正確な位置の写真が撮りたいと言われる。そのため、もう一度車に乗り込み、名神高速の高架下に行って、うろうろすることになった。このとき初めて、幅の広い高架道路は名神高速のものだけでなく、その北部分3分の1ほどは、一般道の高架であったことに気づいた。
 福知山線の線路をまたぐ跨線橋にのぼる。事故以来、テレビの映像や新聞の写真で何度も目にした、今は60km/hに下げられた速度制限標識込みで、カーブの入り口を撮影するポイントはここだったのかと思いながら、跨線橋の踊り場のようなところで、すぐ脇の線路を指さして写真を撮ってもらった。ここからあのマンションまでは、意外なほど距離があるように見える。
 この高架下でハッと思ってから、電車が転倒してマンションにぶつかるまで、一瞬に感じたあの間に、これだけ長い距離を移動していたのだ・・・あのカーブが始まってしばらくの、あのあたりから、電車の片輪が浮いてやがて電車が倒れ、滑り込むようにマンションにぶつかって、あの下にもぐり込んだのか・・・目の前の景色にそんな画を描きながら、思わず見とれる。
 よく生き残っているものだと、今更ながら思う。
… 12 …
 私は今回の事故で、2つの大きな矛盾を抱えることとなった。
 ひとつは、昔から鉄道旅行を好み、近年は鉄道の廃線跡を歩くことをひとつの趣味として、1冊の拙著を出してしまったほど、鉄道といい意味での関わりを持っていたのに、まったく裏切られる形となったことである。
 事故後、しばらく意識を失っていたことや、マンション1階の駐車場の狭い空間に閉じこめられ、あまり周囲の様子が見えなかったこと、そしてヘリコプターや救急車のサイレンなどの音が全く聞こえなかったことが幸いしたのか、今でもPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされることはなく、電車に乗ることに対して、特に抵抗はない。ただ、鉄道により命を落とす寸前までいったということは、全く想像すら出来なかったことで、誠に悲しいことである。
 この手記をインターネット上に公開して以来、100を越える感想メールをいただいた。どの方も、真剣に私の長い駄文に向きあわれ、また涙を流してまで読んでくださった方も、少なからずおられたようだ。そして、本名を記されているメールがほとんどであったどころか、この個人情報の管理が厳しく言われる時代に、きちんと住所も書いて、自らの文責を明らかにされている方も多く、本当に頭の下がる思いである。
 その中で、多かった感想のひとつが、マスコミ報道では判らなかったことが判ったということや、マスコミそのものに対する批判であった。これは、私が言うのも全く烏滸がましいのであるが、その通りであると思う。
 事件や事故の取材では、警察により、「線」が張られる。これは、物理的に現場で立入禁止線がひかれるだけでなく、内容的な面についても、証拠を押さえ、証言を集めるなど、すべての一次的な優先権は警察にある。これは至極当たり前、当然かつ必要なことである。
 そうすると、真実を報道すると思われているマスコミは、基本的には警察や当事者の、発表や会見に頼らざるを得ない。それ以上の情報を得ようとしても、基本的には「線」の外側から撮影したり取材することしかできないので、より真実に迫るためには、「線」の内側にいる当事者やその関係者、あるいは警察の人間に地道にあたるしかない、マスコミとはそんな性質のものである。ここに、速報マスコミの根本的な限界があるのだ。
 しかし私は今回、自分の意志に関係なく、「線」の内側にいたのである。この手記で書いたことは、警察=事故調査委員会に証言したことと同一、いやその時は時間の制約があったり、尋ねられたことしか答えなかったことを考慮すると、それ以上の内容を含んでいる。よって、この痛ましい大事故全体のうち、私の周囲で起こったごく一部分に限ってのことではあるが、私がこの手記を公開することで、マスコミ報道で判らなかったことがいくつか明らかになるのは、ある種当然とも言える。
 ところがところが───何を隠そう私はテレビ局に勤務する、1マスコミ人でもある。報道を直接担当してはいないものの、おそらく今回事故に巻き込まれていなければ、現場中継に行っていたに相違ない立場の人間である。これが今回、自分自身の抱えた、最大かつ最悪なる矛盾点であった。
 よって、被害者=被取材者の立場と、取材する立場の両方が判る人間として、今回の事故においては、他の被害者の方とは少し違う、かなり特異な状況に置かれることとなった。そのひとつの責務として、まだ一般的に脱線原因が分かっていなかった事故直後に、声だけの出演ながら、自社のニュース番組で、電車が線路を逸脱したのは、転倒によってであるという主旨の証言をした。この時点で、事故が車両転倒であったと言うような論述は、ほとんどなかったと思う。
 この証言は全国に流れたものの、残念ながら、一被害者である私の証言だけでは、到底世間全体を納得させるにはほど遠く、車両が転覆脱線したと広く認められたのは、前にもふれたように、事故現場の架線柱の折れ方に注目が集まってからであった。
 また、ひっそりとだが手記を公開したこともあって、活字メディアを主として、たくさんの取材依頼をいただいた。あまり気は進まないが、忙しくても時間を作って、ご要望にはお応えしたつもりである。これは、傷ついた心を奮い立たせながらも、自社の取材に応じてくださっている方々がおられる一方で、私が他社の取材を断ることは、マスコミ人の端くれとして、許されないと思っているからである。
 ただ、自分もその一員ながら、今回のマスコミの対応に、大変落胆した面があったことも否定しない。特に、JR西日本本社の記者会見で横柄な態度を取ったり、「正義の味方」ぶった質問を浴びせた新聞やテレビ局の記者には、思い出すだけでも厭な気分になるくらい、大きな嫌悪感を持った。
 後日、当時の記者会見場に入っていた人間に、その場の雰囲気を詳しく聞いてみたが、かなり異様であったらしい。記者がJR側に質問をぶつけても、JR側の担当者が回答に窮し、いったん会見場から引っ込んで持ち帰って、答えるまでに時間が長くかかるケースも多く、会見場にいた皆が説教モードというか、大変苛立っていたのだという。
 そんなムードもあって、JR職員による、飲み会やボウリング大会をはじめとする「不祥事」探しに、躍起になり出したのであろうか。ある社の記者は、職員によるゴルフコンペを「発見」したときに、ガッツポーズをして小躍りしていたと聞く。あまりもの視点のずれさ加減には、呆れるほかない。
 また、事故現場上空を舞うマスコミ各社のヘリコプターが、負傷者救出作業の邪魔をしたことも否定できない。大変心苦しく思う。ヘリの画がないと、全体の様子が分からない面はあるが、いつも重大事故が起こると、各社のヘリが何機も上空を旋回し、現場に多大な迷惑をかける。被害者の方が、ヘリの音を聞いただけで事故当時を思い出して、気分が悪くなる気持ちも分かるし、どうにかならないものかと思う。
 さらに、今回もマスコミの取材集中に対して、被害者、あるいはその家族が苦悩されているケースが多く見受けられたようである。実際、私にメールをくださった被害者の家族の方にも、取材攻勢に参ったとこぼす方がおられた。今回も、大いに問題があったと認めざるを得ない。
 取材を全面的に断られる気持ちは、痛いほどよく分かる。だからこそ、あえて取材に応えてくださっている方には、私が言う立場ではないのかもしれないが、心から感謝したい。
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 年の瀬も押し詰まった12月25日、新潟県の羽越本線で、築堤上の線路を走行中の特急電車が突風にあおられ、3両が横転するなどして、5名の方が亡くなるという、痛ましい事故が起こった。
 考えてみると、今年一年、鉄道システムそのものの信頼性が、大いに揺らいだ一年であった。
 3月2日、高知県の第3セクター鉄道で、特急列車が終着駅に止まりきれずに、駅舎に突っ込んで運転士が死亡、11人の方が怪我をされるという事故が起こった。事故の発生した駅は、平成9年に新規開業して間もないので、最新式の安全装置が設置されているものと思っていたのに、なんと前近代的な事故が起こったものだと驚いたものだ。しかし、その後1ヶ月余りで、自分自身も高知の事故と同じような次元の事故に巻き込まれるとは───IT社会と言われて久しく、クルマにおいては自動運転の実用化さえ夢物語ではなくなってきたほどの現代において、こんな鉄道事故は到底起こりえないものだと思っていた。
 さらに、今回の羽越線の事故で転倒した電車は、国鉄時代に製造された、古いタイプの重い鋼鉄製の車体であった。それなのに、築堤上で突風にあおられたために、走行中にもかかわらず、転倒したようだ。尼崎事故では、ステンレス製の軽量化された車体にも、問題があるのかなあと思っていたが、重い車体でも転倒事故が起こって、どうにもわからなくなってしまった。
 ただ唯一、これは間違いないと言えるのは、羽越線の事故も、もしレール幅が標準軌であったならば、転倒する確率はより低かったはずだということである。
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 そんなこともあって、一大決心をして、引っ越しをすることにした。別に狭軌の電車が即危ないと言いたいわけでもないし、JRに乗っていると、動悸がするわけでもない。ただ、事故にあった路線に乗り続けるのが、大阪弁で言うところの「けったくそ悪い」からであった。違う表現を使うと、心機一転したいからであった。
 後で気づいて大変驚いたのだが、期せずして、引っ越し日は12年前に新居に移った日と同じとなった。新しいひと回りの始まりである。
 再び阪急沿線の住民となって、一番驚いたことは、私が阪急から離れたひと回り前と比べ、車両のラインナップがほとんど変わっていないことであった。つまり、新しい車両が驚くほど入っていない。また、以前はこんなことはなかったように思うのだが、内装が色あせた車両もまま見受けられる。
 以前は、阪急の車両は新しくて綺麗、一方のJRはそんなに古い車両でなくとも小汚い、といったイメージがあった。しかし、今ではJR西日本は、福知山線や東海道線などでは・・・であるが、あの207系や321系をはじめとする、新型車両を大量投入している───321系は2年間で273両!!らしい ───ために、この12年の間に、車両面における優勢は、JR側に移ったかのように見える。
 阪急の新造車両は、ゼロの年さえあったと聞く。そのため、私が知らない間に、阪急系列の車両製造メーカーであったアルナ工機も、車両受注数が少なくなって、会社が維持できなくなり、一般鉄道車両の製造から撤退し解散、分社化されてしまったようだ。こんなところにも、いけいけドンドンで押していくJR、防戦一方の阪急といった構図を見て取ることができる。
 しかし、地道ながら無理をしない阪急の客となり、これから一生のおつきあいをさせていただこうと思う。
… 13 …
 桜の季節になった。一年間の私の仕事サイクルのうち、前半で最も忙しい時期が、今年もまたやってきた。
 前章で、地道ながら無理をしないと表現したばかりの阪急が、投資ファンドの影響とはいえ、阪神を統合することを検討しているという、信じられないようなニュースが飛び交う中、新聞社や通信社の、事故1年を機にした取材が増えてきた。先にも書いたように、取材を受けることは私の責務でもあると思っているので、夜まで仕事をした後、21時に待ち合わせをするなどして、取材を受けることが続く。新聞社3社、通信社2社の取材を受けたが、正直忙しい時期なので疲れる。
 この取材における記者の質問の中で、多かったもののひとつが、一年を機に現場に行かれますか?、というものであった。実は、これまで現場検証でたまたま行っただけなので、ちゃんとした形で献花に行こうと思っているのだが、ちょうど一年のタイミングで現場に行って、同じ会社の知り合いに会ったらなんとなく気まずいし、どうしたらいいのだろうと思っていると言うと、ある社の記者が教えてくれた。
「一周年の前日の晩なら、翌早朝からの取材に備えて、記者はいないはずですよ」
 なるほどな、と思った。事故の一周年は、言うまでもなく4月25日であるが、私にとっては忙しい仕事が終わった翌日の月曜日であるという意味で、24日も相応しいかもしれない。この日は仕事があるけれど、それが終わってから、深夜にひっそりと一人で献花に行くのも悪くない。
 24日の夜に訪れることに決めた。
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 23日の日曜日、今年も大きな仕事が無事終わった。疲れた体で起きた翌24日は、あの朝と同じく、晴れていた。
 今年は、電車を使わずに千里に出社し、昨日までの大きな仕事で、借用していた機材の返却に向かう。これは、昨年も私がするはずだったのに、事故にあったために、相手方に連絡さえとれず、多大な迷惑をかけてしまったことでもある。
 昨年も一緒に行くはずだった人と共に、今年は無事できたなあと言いながら、機材の返却をした後、大阪郊外で仕事をこなし、梅田に戻ったら、すでに23時前になっていた。献花のための花を買おうにも、こんな夜遅くに開いているのは、繁華街の花屋くらいしか思いつかない。多少、場違いであることを承知で、普段は華やかな場を盛り上げる花しか作らない筈の、繁華街のとある花屋に事情を話して、花を作ってもらう。
 この時点で時計が24時を回った。まさに事故から1年の日になったのである。先述した意味でも、正確な一周年という意味においても、実に今この時間こそが、私にとって現場を再訪するに相応しいタイミングであると感じる。
 タクシーを拾い、あの現場へと向かう。この運転手は事故現場に向かうのが初めてらしい。これまで、不思議と現場に向かう客と巡り会わなかったそうで、あれから1年なんですね・・・と感慨深げだ。
 私が道案内をして、現場への入り口に車が止まった。車から降り立つと、係員が一人立っていて、私に向かって、無言のまま深々と礼をする。もうすでに深夜であるから、ただでさえ静かであるのに、ピンと張りつめた空気が、なお一層静寂を増しているかのようだ。ここが、通常の場所ではないことを実感する。
 ここに立っている人が、JR西日本の職員なのかどうかは知らないが、このひと個人に責任があるわけでもないのに、ずっとこうして頭を下げ続けることは、精神的に大変なことであろうと思いながら、一人通路を進んでいく。
 まもなく自分の左側に、あの日、5時間にわたって己の限界と闘った、あの駐車場ピットが見えてきた。自分の歩いている通路の柵によって、ピットのすぐ脇には行けないようになっているが、普段は立ち入れないはずの、この柵の向こうのピット脇に、20を越える花が手向けられている。(後日知ったことではあるが、私のような負傷者もお願いをすれば、この場所まで入らせてもらうことができるらしい。)
 私にとっての「現場」は、まさにこのピットの中である。
 今は至近までは行けないので、ピットの底の方は見えない。そのかわり、自力では何もすることが出来ず、無力感をもって見上げるしかなかったあのコンクリート天井は、照明もあたっていて、よく見えている。
 構造上、雨水が入らないために、打ちたてのように真白いままのコンクリートに見入る。あのあたりが、私が見ていた天井なのだろうか・・。だが、あまりにすべてが小綺麗に整理されているので、ここが同一場所であると判っているのに、ピンとこない。あのあたりから、こういう感じで運び出されて、今立っているあたりで、救急車に乗せられたのだと、目の前にひろがる画に、当時のさまを必死に思い描くが、やはりあの時のことは、そのこと自体があまりに現実離れした光景だったこともあって、絵空事か幻かのようだ。
 ただ、よく見ると、ピット部分の長さは、機械式駐車場のわずか車3台分の横幅しかない。7~8メートルほどであろうか、このような狭小なスペースに、長さが20メートルある先頭車両が、横倒しになったまま、まるまる1両入り込んでしまったのだ。先頭部は左に折れ曲がって下に落ち、後方は押しつぶされて、残された空間が僅かであったことは、容易に想像できる。改めてその狭さに驚く。
 手を合わせながら、いろんなことを思う。このマンションの1階部分が、このような駐車場ピットでなく、通常の居室等であったならば、この私が今、こうしておれなかったろうことは間違いない。また、私がもし、瓦礫の下の医療による点滴を受ける直前に救出されていても、挟まれていた時間が短いにもかかわらず、クラッシュ症候群によって、かえって命が危なかったであろうことも事実だ。いろんな偶然が重なって、今ここに自分が立っている。
 ここが、考えたくもないような修羅場になった1年前、助けられる立場から見て、救急関係の連携がとれているように感じた。入院中に、自分が運ばれた病院の救急医の方に尋ねたところ、阪神大震災での災害医療の反省をふまえ、一年に数回、阪神間広域の救急訓練をしているとのことであった。そのため、いろんな病院の医師や救急隊員が、現場で互いに顔見知りになっていたケースも多々あって、あの緊急事態において、有効な横の連携も働いたようだ。
 阪神大震災は誠に不幸な大惨事であったが、このように、震災をきっかけによくなったことが、一つはあった。この痛ましい列車事故をふまえて、何かがよくなるだろうか。いや、何かを改善せねばならない───
 ピットに向かってしばらく手を合わせた後、さらに奥にある献花台へと向かう。
 深夜にもかかわらず、ここでも2人が立っていて、無言のまま、頭を下げている。献花台の北側は報道スペースになっていて、脚立が林立しているが、この2人以外は誰もいない。夜が明けると、たくさんの人が訪れるはずだが、今は静かだ。ひとり思いに耽りながら、手を合わせる。
 よく亡くなった人に対して、冥福を祈ったり、安らかにお眠りくださいという言葉を使う。冥福とは、死後の幸福という意味だという。しかし、私があの時、あのまま命を落としていたなら、とても死後も幸福であったり、安らかに眠れるはずがない。なんでこんなことで命を落とさなければならないのだ・・・と、それこそ何十年、何百年経っても、地獄の底から関係者を恨み続けているはずだ。
 亡くなった107名のうち、少なくとも106名は、命を落としたくなかった人たちだ。同じ事故に遭いながら、現世に踏みとどまった私に冥福を祈られて、106の御霊はどう思われるだろうか・・・ しかし、生き残った私がこの場所でできることと言えば、やはりご冥福をお祈りすることしかない。ある意味「逃げ」であるかもしれないが、こうするしかないのだ。そして、生き残った者の責務を、改めてここで誓う。私も鬼籍に入った折に、皆様にちゃんと報告できるように。
 もう一度、自分にとっての現場で歩みを止める。タクシーを待たせている時間が長くなった。また再訪することを誓って現場を後にした。
                            -了-
 今回、自分が生命の危機に直面しただけでなく、私の知っている方や近所の方も亡くなりました。大量輸送機関である鉄道が、現代になってなお、これほど前時代的なレベルの事故を起こしたことは、自分が被害を受けたことを差し引いても、大変ショックに思っています。
 生き残った者の一人として、今後、JR西日本の「更正」を監視していく責任があると思っています。その一方で、これだけの事故も、風化しつつある現状があります。「安全性向上計画」が実際にどれほど実現できているか、企業風土の改善は進んでいるかなど、随時報告を求めていきます。
吉田恭一  

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